「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

釜ヶ崎の現在

遠隔授業で大変だったこと

様々なLMS

 前回は遠隔授業で大変だったことについて書いてもらいました。みなさんの体験を読んでいて、PowerPointのスライドしかない授業もあったと知って驚きました。オンライン授業にしても、zoomであったり、Microsoft Teamsであったり、Google Classroomであったりと、授業によって用いるツールが異なって覚えるのが大変だったという体験談も少なくありませんでした。

 これらはLMS(Learning Management System)と呼ばれるようですが、このような呼び名も、今回の遠隔授業が取り入れられるまで、私も意識したことがありませんでした。四天王寺大学のIBU.netもLMSの一つということになるのでしょうが、これまでは出欠登録に用いるくらいで、課題管理や資料共有に用いたことはありませんでした。外部のLMSを用いる以前に、IBU.netは本学の学生が必ず用いるものだろうし、利用方法についても大学から必ず案内があるものと思っていました。しかし、しばらくIBU.netというものがあることを知らなかったという人もいました。

周知不足の問題

 この授業では、基本的にIBU.netの授業資料のところに教材を登録する形で進めました。というのも、4月20日の時点で、5月の授業開始までの休講期間中の課題を出すように大学側から指示があったためです。IBU.netの授業資料のコーナーは、必ず確認するように周知されるだろうと理解しました。ところが、授業資料に教材が登録されていることに気づかず、課題提出に課題が登録されて初めて授業が進行していたことに気づいたという人がたくさんいました(この人たちには救済課題を出しました)。

 動画の最後に課題が出されていることに気づかず、しばらく放置していて、後でそのことを知って焦ったという体験談もありました。なかなか課題が提出されない人がいましたが、なるほど、こういう背景があったのかと納得しました。

課題疲れ

 世間一般でも言われていることですが、課題の多さに辟易したという話もありました。オンデマンド授業である以上、誰が視聴したかを確認する手段がないため、出欠確認も兼ねて必ず課題を提出してもらわなければなりません。課題が負担になりすぎないように、この授業では平常の課題は控えめにしたつもりでしたが、実際のところどうだったでしょうか。内幕を明かせば、授業内容に関連した課題を考えるのは結構大変で、また、せっかく提出してもらった課題を授業に反映しないわけにもいかないと、毎回頭を悩ませていました。

 課題の提出方法についても、授業ごとにいろんな形があったようです。「レポートのコメント欄に直接書き込む」「毎回Wordでレポートを書いて提出」「Gmailで提出」「Google Classroomで課題提出」「紙のレポートを作成し教務課に郵送」など、実際にあげてくれたものだけでも様々です。提出期限がバラバラだったり、授業はzoomでも「夜21:45から」というものもあったと知りました。

この授業の場合

 この授業の教材は、最初はパスワードをかけていましたが、うまく開けない人が散見されたので、すぐにパスワードをかけるのはやめました。ネットの回線環境の問題を考えて、動画だけでなく、ブログでも同じ内容を配信するようにしました。授業時間中に質問を受け付けるための掲示板も設けましたが、こちらは使われることはありませんでした。

 ブログは動画を収録する際の台本のような意味もありました。内容が同じなら、動画は配信しなくてもいいのではないかと思わなくはありませんでした。文章で読んでしまった方が、時間もかけずに済みます。しかし、動画の再生回数を見ると、ほとんどの人が動画を視聴してくれていたようです。また、教員の顔がわからないと質問をする時にためらいがあったという意見もあり、面倒でも動画の配信はしてよかったと思いました。

釜ヶ崎の現在

釜ヶ崎のセンター

 釜ヶ崎は、行政の用いる言葉では、あいりん地区、あるいはあいりん地域とも呼ばれます。これらは、前回の暴動をきっかけに釜ヶ崎に対して行われるようになった「あいりん対策」の対象範囲を定めるためのもので、管理対象として指定された釜ヶ崎の範囲は0.62平方キロメートルになります。

 釜ヶ崎にはいくつか特徴的な場所があります。その一つが「センター」です。センターは、JR環状線新今宮駅の向かい、南海線に面して建つ巨大な建造物です。正式名称を「あいりん総合センター」と言います。あいりん総合センターには、いくつかの施設が入っています。あいりん公共職業安定所と西成労働福祉センターを合わせた「あいりん労働福祉センター」、大阪社会医療センターという病院、それから、市営住宅もこの建物の中に組み込まれています。センターの中にセンターがいくつも入っていることになるのでややこしいのですが、釜ヶ崎の労働者にとって「センター」といえば、仕事を探しに来る場所です。

仕事を探しに来る場所としてのセンター

 前回も見たように、1960年の朝日新聞ルポルタージュには「4,000人もの日雇労働者が仕事を求めて集まってきている早朝の寄せ場の風景」が描かれていました。この当時の寄せ場とは、幹線道路沿いの広場で、本当の意味での青空求人市場でした。センターが完成したのが1970年のことです。センターが完成してからは、主にセンターの1階部分で日雇求人が行われるようになりました。

センターの職業紹介

 先ほど、センターの中に入っている施設として西成労働福祉センターという名前が出てきました。西成労働福祉センターは大阪府の外郭団体です。釜ヶ崎で求人したい業者は西成労働福祉センターに登録しなければいけません。西成労働福祉センターに登録した業者は、相対紹介と窓口紹介の二通りの方法で求人をすることができます。

 窓口紹介とは、朝10時20分からセンター3階にある西成労働福祉センターの窓口で求人する方法です。事業者はここで求人票を掲示してもらい、仕事を求める労働者はこの求人票を見て事業者に連絡を取り、仕事に行きます。

 相対紹介とは、早朝のセンターの1階で、事業者と労働者が直接やりとりをして仕事を紹介するものです。1階といっても、出入口のある建物ではなく、早朝5時に建物の外周のシャッターが上がると、そこは通り抜けのできる広大なスペースになります。事業者はこの周りに車を停め、西成労働福祉センターに発行してもらった求人プラカードをフロントガラスに載せて求人をします。求人プラカードには仕事の条件が書かれており、労働者はセンター1階を回って、自分が行きたい仕事を探します。

 早朝5時にセンターのシャッターが上がるといっても、実際の求人はこれより早くはじまっています。事業者の中には、センターから離れた路上で求人するものもあります。西成労働福祉センターが発行するプラカードを用いずに行われる求人は、闇求人といって、本来なら違法です(もっとも、相対紹介自体、元々は違法な路上求人を部分的に合法化したものでしかありません)。

あいりん職安と白手帳

 センターの3階は、1階の広大なスペースそのままのスペースがあり、北側にあいりん公共職業安定所、南側に西成労働福祉センターがあります。また、いくつかの食堂の屋台も出ています。

 あいりん公共職業安定所は、職業安定所という名前が付いているものの、職業紹介をしていません。あいりん職安の仕事は「日雇労働求職者給付金」という、日雇労働者のための失業保険を給付することです。この制度は「あぶれ手当て」「白手帳」などともいわれます。

 あぶれ手当ての給付を求める人は、登録するともらえる手帳(表紙が白いので白手帳と呼ばれる)に失業保険の雇用保険印紙を貼る必要があります。日雇労働求職者給付金の登録事業所では、労働者が希望すれば、仕事をした日には白手帳に印紙を貼ります。印紙は有料で、事業者と労働者が分担して負担します。日雇労働の日当によって印紙の等級が決まっており、高い印紙であるほど、失業保険の給付額も大きくなります。この印紙が2ヶ月で26枚以上貼ってあると、その翌月に、仕事につけなかった日が2日続くと2日目から、13日を上限に失業保険が給付されます。日頃からがんばって印紙を貼っておけば、仕事に行けなかったり、雨で仕事がない日が続いたりしても、失業保険でやり過ごすことができるというわけです。

西成労働福祉センター

 先ほど出てきた西成労働福祉センターは、釜ヶ崎での職業紹介を仲立ちするほかにも、無料の職業訓練の機会を提供したり、労災を受ける時の手助けもしてくれます。

 日雇労働者でも、仕事中に怪我をすれば、労災保険の対象となります。元請会社は労災保険に入る義務があるからです。しかし、通常、労災のお金が入ってくるのは翌月のことになります。普通に働いている人であれば翌月でも困りませんが、その日暮らしをしている日雇労働者の場合、怪我をして次の日仕事に行けなければ、すぐに生活に困ってしまいます。そこで、西成労働福祉センターが療養中の生活費を貸し付けてくれます。1ヶ月後に労災保険のお金が出れば、そこから返済すればいいし、怪我が治ればまた働けばいいわけです。

日雇労働者を助ける仕組み

 このように、センターには日雇労働者を助ける仕組みがたくさん用意されています。センターの地下にはシャワー室があります。

 大阪社会医療センターという病院では、無料低額診療といって、無期限無利子の貸付けで診察してくれます。これは、お金のない人は、ある時に払ってくれればいいということです。

センターに集まる人びと

 センターのシャッターは早朝5時に上り、午後6時に閉まります。一番人が多いのは早朝の求人の時間帯です。しかし、この時間帯以外も、センターには一日中利用者の姿があります。というのも、センターは労働者の情報交換の場でもあるからです。

 その日は仕事をするつもりがなくても、どれくらい仕事があるのか、どんな会社が求人に来ているのかをリサーチしにくる人もいます。センターにくれば顔見知りと出会うこともあるので、お互いの最近の状況を確認しあったり、そのまま一緒に遊びに行くということもあるでしょう。

 釜ヶ崎の労働者が泊まっている簡易宿所は、広いところでも畳にすれば3畳程度しかありません。狭い部屋の中で一日中じっとしていても退屈だし、友だちを呼ぶこともできないので、自然と外に出るようになります。外に出た時に、自然と足の向く場所の一つがセンターです。

 センターには、さまざまな情報が集まります。みんなが仕事探しに集まるのはもちろんだし、いろんな情報を伝えたい労働団体や支援団体がセンターに張り紙をしたり、ビラを撒いたりします。定期的にセンターで弁当やパンなどを配る団体もあります。また、行方不明になった家族や知人を探しに訪れるという人もあります。

センターで休む人たち

 センターの1階と3階で休む人たちもいます。特に、抜け道として人が通り抜けていくことも多い1階と違い、3階は職安と西成労働福祉センターに用事がある人以外は上がってこないので、静かに過ごすことができます。ダンボールを敷いた上に布団や毛布、寝袋で横になっている人が多いのもセンターの3階です。

 アルミ缶やダンボールなどの廃品回収をするのは夜間から早朝にかけてになります。したがって、野宿生活をしている人たちが休むのは日中になることが少なくありません。また、商店街のアーケードや路上で野宿していても、襲撃の危険があったり、夜中でも人通りがあったりして、落ち着いて寝ることができません。センターであれば、昼間しか利用できないとはいえ、安心して休むことができます。

 センターで休んでいる人たちは、日雇労働に行くことが難しくなった人が多いようです。毎日仕事に行くのは体力的にきつい、怪我をして仕事に行けないので、夜間は釜ヶ崎にあるシェルターに泊まり、昼間はセンターで過ごして、炊き出しに並ぶという人もいます。仲間が紹介してくれる仕事で日銭を稼いでいるという人もいます。

 「生活保護を受ければいいのに」と思うかもしれません。しかし、彼らは「本当にどうしようもなくなるまでは自分でなんとかしたい」と思って、このような生活をしています。ほかに休める場所がないということもありますが、自分はまだ労働者であるという気持ちがあるのだと思います。センターから仕事に行くのは実質的には難しくても、センターという場所に来てなんらかのチャンスを探そうとすることで、まだ労働者であり続けることができるのではないでしょうか。「仕事があればしたい」「センターにずっと助けてもらっていた」と語る人に出会ったこともあります。

労働市場としての釜ヶ崎の衰退と見えなくなる労働者の姿

 これまでセンターという場所について話してきました。しかし、実は、これは2019年の3月末までのセンターの姿です。現在、大阪社会医療センターは元の場所で診察を続けていますが、あいりん公共職業安定所と西成労働福祉センターは、南海線のガード下に仮移転しており、センターのシャッターが開くことはありません。

 1970年に建てられてから、すでに50年が経過しており、センターの建て替えは長い間、行政課題となっていました。1990年代以降、釜ヶ崎の求人数は減少を続けており、労働者が高齢化する中、生活保護を受けるようになる人が増え、そのような人たちの受け皿となる福祉アパートも増えました。釜ヶ崎の街の将来がいずれ課題となることは明らかでした。また、このような課題を作り出した責任の一端は、前回ふれたように、建設需要が高まった時代に単身男性日雇労働者の街を作ってきた行政にもあります。

 実際に釜ヶ崎の求人数は減ってきているし、新しく若い労働者がやってくることも少なくなっています。その背景には、これまで見てきたように、求人広告を用いた、寄せ場以外の求人手段が発展したことがあります。また、簡易宿所に泊まって仕事を探す労働者を当てにするのではなく、最初から飯場に労働者を囲い込むような業者が増えたことも指摘されています。

 かつての釜ヶ崎の労働者が担っていた役割を果たしている労働者がいなくなったわけではないし、釜ヶ崎の労働者がいなくなったわけでもありません。しかし、釜ヶ崎にたどり着くのは、本当に仕事がなくなって、ギリギリのところまで来た人たちになっています。どこかに労働者はいるはずなのに、労働者の姿が見えなくなっているのです。

困っている人が集まる場所

 現在は、特定の場所に人を集めなくても働き手を調達できるような仕組みが作られています。そして、人を集めるのは、にぎやかで、消費を楽しめる場所であって、そのような場所はお金を儲けるために作られています。

 かつては、下手に人を集めて、不満を持った人たちが暴動を起こすことが恐れられていました。それでも人を集めなければ働き手が得られなかったのです。そのため、必要だから集められているにもかかわらず、社会一般からはタブー視され、無いことにされている釜ヶ崎のような場所は「隠蔽された外部」と社会学では言われていました。

 私たちの暮らしている社会は、そのような場所を無くそうとしてきましたが、そのような場所を無くすことは、無理だし、表面的に無くしてしまうことは危険だと私は思います。この社会がにぎやかで楽しい場所ばかりになっても、にぎやかで楽しく暮らせない人たちがいなくなるわけではありません。にぎやかで楽しい社会の陰で、苦しくとも苦しいと言い出せない人たちがいます。そのような人たちの居場所が次々に奪われていくと、最後に行き着く場所は限られてきて、結果的に一ヶ所に人が集まることになります。釜ヶ崎は最後に残された避難場所のようなものです。困っている人たちが集まってくるからこそ、私たちの社会は私たちの社会にさまざまな問題が隠されていることに気づくことができます。 

民営化の二つの方向

 2012年に大阪市で始まった西成特区構想について、当時の橋下市長は「西成が変われば大阪が変わる」「西成をえこひいきする」といって注目を集めました。ここでの「西成」は、暗に釜ヶ崎であり、あいりん地域を指しています。釜ヶ崎に集まる人びとがさまざまな問題を抱えていることは確かでしょう。しかし、それらの問題は、その人たちに責任があるわけではありません。また、その人たちの抱える問題が解決されなければならないのは、その人たちが幸せに暮らせる権利を保障するためであって、大阪を変えるためではありません。

 西成特区構想では、地域住民の参加を求めるまちづくりの仕組みを釜ヶ崎に徐々に取り入れるようになります。現在の大阪の政治のキーワードは民営化です。これは日本全体にも当てはまるかもしれませんが、特に最近の大阪で顕著であり、独自の施策も目立ちます。民営化とは、それまで行政が担っていた部分を行政以外の立場の人びとの管理に移行することと言ってよいでしょう。そして、民営化には二つの方向があります。

 一つには、前回ふれたように、公園や図書館といった公共施設の管理を民間事業者に委託し、商業化することです。これらの施設は、商業化によって見た目がきれいになり、訪れる人も増えるため、にぎわいが生まれたと喜ばれます。また、民間委託したことで、管理費用が安くなった、あるいは「儲かるようになった」ことも利点として語られます。もう一つの方向は住民参加型のまちづくりです。行政がトップダウンで決めていたことを、住民同士の話し合いを通して決めるようにする、地域住民で協力して街の課題を解決するといえば、これも良いことのように思われます。

 しかし、気をつけなければならないのは、こうしたことを取り入れる理由として、コストカットがあるという点です。本来お金にならない公共施設の管理を民間事業者に任せれば、利益が生まれるかもしれませんが、公共施設の役割そのものが変わってしまいます。住民参加の問題解決を助け合いと考えれば、すばらしいことかもしれませんが、そもそも住民で解決できないことを解決するために行政があることを忘れてはいけません。

あいりん地域のまちづくり

 労働者の街としての釜ヶ崎はさまざまな問題を抱えていることは確かです。求人の減少や労働者の高齢化といった変化への対応も必要となるでしょう。そして、そのような地域の問題に向き合おうという地域の人びとの取り組みも存在していました。西成特区構想は、これらの取り組みを政策の中に組み込む仕組みを用意しました。

 住民だけで解決できない問題があることは確かで、そこに行政がかかわる仕組みを用意してくれるというのは、願ってもない話と言えるかもしれません。しかし、そもそも住民で解決できない問題に住民がかかわらなければならないとしたら、それはどのようなかかわりでしょうか。「あいりん地域のまちづくり」として始まった会議は、あいりん総合センター建て替え問題を中心議題とする形で集められました。そして、6回に渡る会議の末に、あいりん総合センターを今ある場所に建て替えることが決まりました。

 センターは日雇労働者の街の核となるような大切な場所であり、会議の中心議題となるのも不思議はありません。会議に参加していたのは、さまざまな人たちでした。釜ヶ崎労働団体や支援団体もありましたが、地域の町会の人たちも参加していました。しかし、日雇労働者の街の主役であるはずの労働者や、かつて労働者であり、住民の割合の多くを占める生活保護で暮らす人びとの声が十分に反映されたものとは言えません。

センター閉鎖阻止と強制排除

 建て替えをするためには、現在のセンターの仮移転と閉鎖が必要になります。それぞれの施設の仮移転はできても、1階と3階で休む人たちのための代替地が用意されたわけではありませんでした。釜ヶ崎にはセンターの閉鎖や建て替えそのものに反対する人もいます。2019年3月31日、センターで二度と上がることのないシャッターが下されようという時に、閉鎖に反対する人たちが集まり、結果として閉鎖は阻止されました。そして、閉鎖に反対する人たちがセンターを占拠し、24時間開放されたセンターは、多くの人びとが体を休める場所、交流する場所であり続けました。

 しかし、4月24日の正午、警察の機動隊と大阪府の職員数百名が突然現れ、センター内にいた人びとは強制的に排除され、シャッターが下されることになりました。まちづくりの会議の場所では、行政の立ち合いのもとで話し合いがされ、民主的な決定がなされたのかもしれません。しかし、会議の場の外に目を向ければ、話し合いから取り残された人たちがおり、暴力にものを言わせた強制排除が起こっています。

 「西成特区構想によって西成は良くなった」「不法投棄が減ってきれいになった」と当時の大阪市長は胸を張って言っていました。しかし、依然として野宿生活を送る人たちはセンターの周りにあふれているし、不法投棄も無くなっていません。そのセンターの解体は2020年度内に着手されるスケジュールになっています。

 住民に解決できる問題とできない問題があるのに、問題解決のお墨付きに利用されるまちづくりでは意味がありません。

不当性の感覚と理解の学び

 私たちの社会には、あるがままの存在から目を逸らさせるような排除の仕組みがさまざまなところに仕掛けられ、作動しています。こうした排除の仕組みに気づくためには、一人ひとりが不当性の感覚を磨かねばなりません。「何だかおかしい」と感じるところからはじめなければならないし、「何だかおかしい」という感覚を理解につなげるためには、学びが必要です。この二つのことを、今後の大学生活のなかで、覚えておいてくれるように願っています。

今回の課題

課題14

 今回は、この授業を終えての感想を書いて提出して下さい。また、感想とは別に、遠隔授業としてのこの授業で困ったこと、大変だったこと、または他の遠隔授業と比べて良かった点などがあれば、今後の参考にさせていただくので書いてもらえると助かります。課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題14」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。

最終レポート課題(再掲)

 また、前回の授業でも予告した最終レポート課題も、IBU.netの課題提出から登録することを忘れないで下さい。締め切りは最終授業日中です。

本のおすすめ

 この授業の内容をもっと深く学びたいという人は、洛北出版から刊行されている拙著『飯場へ——暮らしと仕事を記録する』という本を読んでみて下さい。学問もフィールドワークも、究極的には自分自身と向き合う孤独な作業です。この孤独な作業を循環させるのは、やはり本を読むという営みにかかっているのだと思います。

【学期末の授業評価アンケートにご協力下さい】

 学期末にIBU.netから授業アンケートに回答して下さい。このアンケートで個人が特定されたり、回答結果が成績に影響することはありません。授業の改善のために活用されます。

 授業評価アンケートは、IBU.netのメニュー画面の「授業評価アンケート回答」から「授業評価アンケート検索」にアクセスし、受講している授業のアンケートに回答して下さい。

 

釜ヶ崎の成り立ち

場所について考える

お気に入りの場所、特に用事がなくても立ち寄ってしまう場所

 前回の授業課題では、自分がこれまで生きてきた中で、お気に入りの場所、あるいは「特に用事がなくても立ち寄ってしまってしまう」ような場所について、ふりかえって考えてもらいました。

 自分が高校生のころのことを思い出すと、部活動の帰りに毎日友だちと一緒に、帰り道の本屋何軒かをはしごしていました。毎日寄ったからといって何か得られるわけではないし、その店の本棚ももはや知り尽くしているのですが、それでも何か面白いものに出会えるチャンスを感じていたのでしょう。大学生の頃にも、近所の古本屋数軒を一人ではしごしていたことを思い出します。

 休みの人に友だちと待ち合わせて自転車で出かける時も、いつも定番になっている本屋やCDショップなどのコースがあり、最後は立体駐車場のベンチで長話をしていました。お金がない高校生が友だちと無駄なおしゃべりをして過ごすためには、そのような道筋が必要だったのでしょう。

 みなさんが書いてくれた中にも本屋さんがありました。出かけた時にゲームセンターに立ち寄るとか、風景のいい公園など、さまざまな場所をあげてくれていました。中には自分の家のリビング、自分の部屋や出窓、ベランダなどをあげてくれた人もいました。

仕事場を探して

 今年の緊急事態宣言が出ている時期には、マクドナルドのようなチェーン店を含め、喫茶店や飲食店が丸ごと閉鎖されていました。ふだん自宅で作業していても気乗りがしないので、ノートパソコンやタブレットスマホを持って喫茶スペースに行くことがよくあります。しかし、緊急事態宣言中はそれができませんでした。

 気分も落ち込んでしまうので、出来るだけ日光を浴びた方がいいと思って、外で作業できる場所を探しました。折りたたみ式のアウトドアチェアを購入し、この授業の教材の準備は近所の川の緑地帯になっている歩道沿いで行いました。いつもそこに行くのも気分が乗らないので、同じように仕事ができそうな場所を探しました。そうは言っても、遊具があるような普通の公園だと親子連れや子どもたちがいて落ち着きません。あちこち原付で走り回って見つけたのは小さな史跡公園でした。大きな木が立っていて、石碑のある石畳の公園が交差点沿いにポツンとあり、車は通るものの人通りは少ないので、そこで仕事をしたこともあります。どちらも悪くない居場所でしたが、トイレがないことが難点でした。

 この二ヶ所は結構気に入っているのですが、緊急事態宣言が終わってしばらくすると、再開したチェーン店に少しずつ足を運ぶようになりました。また最近は雨続きで、そうでない日も結構暑くなってきたこともあり、折りたたみ式の椅子を持って仕事をしに行くということはなくなっています。

 もう一ヶ所、コロナ禍になって長時間過ごすようになった場所として、自宅の物干し台のベランダがあります。とにかく日光を浴びたいので、そこに折りたたみ式のイスを持って出て仕事をしたり、寝袋と枕を出して寝転がったりするようになりました。空が開けていて開放感があるので、やる気が出ない時にはまずベランダに出てみることにしています。気が張って休めない時にもベランダだと落ち着けるので、晴れた夜はベランダで寝ることもあります。

遠隔授業、テレワークなんてできるのか

 コロナ禍が広がる中で、テレワークが推奨されるようになり、大学の授業は軒並み遠隔化されました。みなさんも遠隔授業を嫌というほど味わってきたことと思います。最初は使ったこともなかったzoomを使って、私も毎週何回も授業をしています。自分が作成した動画をYouTubeにアップするなどということも、このような機会がなければ、なかなかやらなかったと思います。何度か「zoom飲み会」も試しました。離れて住む友だちとのおしゃべりはそれなりに楽しく、夜遅くまで飲んで酔っ払っても、そのまま自宅で横になれることの快適さに、こういうのも悪くないなと思いました。

 しかし、こうしたことができるのは、おそらく遠隔でない状態ですでに出来上がった関係や、経験の蓄積があるためだと思います。初めて顔を合わせる同士の懇親会といってzoomで飲み会をするというのは、少し無理があるように思います。遠隔授業にしても「授業とはこういうものだ」という理解なり、経験がすでにあるところで成立しているもので、対面授業の中には遠隔に置き換えられるものがあるか、どちらがどちらより優れているとか、単純に考えてしまうのは危険だと思います。

遠隔につながれない人びと

 もちろん、すでに遠隔授業にうんざりしているという人もいるでしょうし、「zoom疲れ」という言葉もあります。しかし、そもそも遠隔につながれない人たちも存在します。コロナ禍においても休むわけには行かない人たちのことを「エッセンシャルワーカー」と呼んでいるのを耳にすることがあります。スポーツの大会が中止になったり、観光産業が大きな打撃を受けていることも報じられています。

 私たちの社会は「人を集める」ことでお金を儲ける社会に作り替えられています。観光産業とはまさにそういうものだし、スターバックスタリーズのようなコーヒーチェーン、フードコートのような場所は、店舗のスペースと道路や通路などの公共空間とが曖昧になっていて、独特のくつろぎの空間を演出しています。しかし、見方を変えれば、そのような場所は、くつろぎの空間をお金儲けのために作り出しているもので、さらにお金儲けのためのくつろぎ空間を広げようとするものでもあります。

 最近では、民間企業が公共図書館の管理を委託される事例が広がっています。民間企業がかかわることで、図書館がきれいになり、おしゃれでくつろげる場所に作り替えられ、経費も浮くとなれば、こうした動きを歓迎する人がいるのもわからなくはありません。しかし、もともと図書館は「くつろぎにくる場所」ではないし、くつろぎの空間として人が大勢集まることは、図書館としては必ずしもプラスではありません。

 大阪市大阪城公園天王寺公園(通称てんしば)も、民間企業が管理に関わることで、「多くの人で、にぎわうようになった」とマスメディアで肯定的に取り上げられています。しかし、公園は誰もが利用できて、自由にくつろげる場所です。「にぎわう」といえば、いいことのように思われますが、お祭り会場ではないのだし、大勢の人がひしめき合っていては、とてもくつろげません。公園に人があふれかえるのは、人口に比して公園が足りていないことを意味します。

 それでも「人を集める」ことがいいこととして推奨され、それに合わせてさまざまな便宜がはかられてきました。それが丸ごとひっくり返ったのが今回のコロナ禍だったのです。新型コロナウイルス感染症の感染拡大を避けるため、集まらないこと、遠隔で済ませられることは遠隔で済ますことが推奨され、「新しい生活様式が必要だ」などとも政府は言っています。

 しかし、そもそもこのような事態に対応できない人たちもいます。野宿生活を送る人びとは、「にぎわいの空間」に作り変えられる街中や公園から追い出されて、居場所を奪われてきました。その結果、野宿者が過ごせる場所はますます限られてきており、同じ場所に集まらざるをえなくなります。集まることに自粛が求められるようになったため、炊き出しや弁当の配布などが中止になっています。ネットカフェで生活している人たちの多くが、ネットカフェが営業中止になり、野宿生活を強いられています。このような困難に見舞われた人びとが行き着く場所のひとつが釜ヶ崎になっています。

釜ヶ崎の成り立ち

生活に困った人が集まるところ

 「西成に行けば何とかなる」と言われる釜ヶ崎は、日雇労働者の街でした。仕事や住む家を無くしても、釜ヶ崎に行けば日雇の仕事に行って、その日の分の稼ぎを得て、すぐ近くにある安いホテルに泊まることができます。そして、次の日も日雇の仕事に行ったり、飯場に入ったりして、何とか食いつなぐ「その日暮らし」を生きることができます。

 釜ヶ崎のはじまりは戦前にさかのぼります。釜ヶ崎はJR環状線新今宮駅の外側に位置します。19世紀末頃、この辺りは大阪市の外れでした。ここからもう少し北に行ったところに、現在の日本橋があります。日本橋の辺りは、やはり江戸時代の大坂の外れのような場所で、ここには名護町という木賃宿街がありました。いつの時代にも、他の土地から流れ着いた人たちが暮らせる場所が都市の中にあったことがわかります。

 1903年に第5回内国勧業博覧会という催しが大阪で開催されます。この会場となったのが、現在の新世界の辺りです。新世界の通天閣は、実はこの博覧会の名残りとして現在の姿で存在し続けているものです。博覧会の当時は通天閣から天王寺動物園を越えた茶臼山まで、ロープウェーが渡されており、遊園地のようなにぎやかな場所として開発されていました。

名護町から追い出される人たち

 2025年の大阪万博が予定されているのは、夢洲という埋立地で、やはり大阪市の外れになります。博覧会が行われる場所が、なぜ都市の外れになるかというと、大きな催しをするためにはそれだけの土地が必要になるからでしょう。広い土地を確保できて、都市の中心部からもアクセスしやすい場所となると、その都市の周辺部にしか開発可能な土地が残されていないことになります。1903年内国勧業博覧会の時は、日本橋や新世界の辺りがその条件を満たす場所だったのです。しかし、すでに述べたように、そこには木賃宿で暮らす貧しい生活を送る人びとが住んでいました。名護町に住んでいた人たちは、博覧会の開発に追われて、さらに外れへと移り住むことになります。そこが現在の釜ヶ崎に含まれる場所だったのです。

 当時の地図に「釜ヶ崎」という地名が記載されていることが確認されていますが、現在は地名として「釜ヶ崎」という名前はありません。しかし、貧しい人たちが集まって暮らす街を指す言葉として、「釜ヶ崎」の名前は現在まで語り継がれているのです。

戦後の釜ヶ崎

 第二次世界大戦中、日本の主要都市の多くが空襲を受け、焼け野原になりました。当時、日本一の工業都市であった大阪が空襲の標的にされないはずがなく、釜ヶ崎も焼土と化しました。しかし、戦後も釜ヶ崎簡易宿所街として再生していくことになります。

 1960年の朝日新聞ルポルタージュでは、「大阪のどん底釜ヶ崎”」と紹介されています。このルポルタージュでは、4,000人もの日雇労働者が仕事を求めて集まってきている早朝の寄せ場の風景が描かれています。また、南海線の高架下などには、手作りの小屋がひしめき合う「密集バラック地帯」があったと書かれています。「犬小屋を大きくした」あるいは「牛小屋を半分にした」ような粗末で小さな小屋が300軒もあり、2,000人もの人びとが暮らしていたといいます。一つの小屋あたり、平均4、5人、最高7人で暮らしていたとあります。

 当時の釜ヶ崎では、子連れの家族が暮らしていたこともわかります。めんこやチャンバラ遊びをして駆けまわる子どもたちの姿が見られたようです。その父親は日雇労働者で、母親は旅館の掃除婦といったふうに、両親の共働きでした。日払いアパートには誰もおらず、昼食もろくに用意してもらえないようなこともあるなかで、子どもたちはたくましく育っていたようです。

 日雇労働者バラックが集まる場所に隣接して、売買春が行われる遊郭があります。現在でも「飛田新地」の名前で知られています。貧しい人たちが仕事を求め、生活する街と、売買春を取り仕切るヤクザが幅を利かせる街とが隣り合って存在していました。日雇労働の紹介にはヤクザが関係していることも少なくなく、ふたつの街は、様相は異なるものの、どこかでつながり合っていました。

 この頃の釜ヶ崎の問題といえば、街の衛生環境のことであったり、満足に学校にもいけずに、ほったらかしにされている子どもたちに関することでした。

労働者の街として作り変えられる釜ヶ崎

 このような街だった釜ヶ崎が大きく作り変えられるきっかけとなったのが、1961年6月1日に起こった暴動でした。現在でも言えることですが、日雇労働は、仕事があるときには大事にされる一方で、仕事がない時にはほったらかしにされる条件の悪い仕事です。お金のある時もあれば、食べるのにも困るような時もあります。本人たちは貧しい生活を自力で生き抜こうと努力していても、周りからは怠け者であるかのように差別的に見られることがあります。何か事件があると、何もしていなくても警察からは怪しまれ、ふだんから嫌な思いをしています。

 この暴動のきっかけとなったのは、交通事故にあった一人の労働者に対する警察の取り扱いでした。釜ヶ崎の近くの交差点付近で起こった交通事故で、被害者にはまだ息があったにもかかわらず、現地を訪れた警察は救急車を呼びませんでした。これを見て、ふだんから警察から差別され、嫌な思いをしている労働者たちの怒りに火がつきました。交通事故の被害者で、本人には何の落ち度もないにもかかわらず、命の価値を選別されるのを目の当たりにしたのですから、腹が立たないわけがありません。警察に対する怒りはふくれあがり、何日間にもおよぶ大規模な暴動となりました。

 このような暴動は、労働者が怒りを表す方法として繰り返されることになりました。もともとやり場のない怒りを抱えていた人たちの思いがあふれ出したものが暴動だったのです。しかし、この暴動によって、釜ヶ崎は「身元の怪しい日雇労働者が集まる危険な街」と見られるようになりました。

 「日雇労働者を一ヶ所に集めているからこんなことが起こるのだ」というわけで、最初のうちは釜ヶ崎を管理する方向で施策が取られました。無秩序だった日雇労働の紹介業務にかかわるために、西成労働福祉センターという機関が作られました。生活面では、家族を対象とした入所施設が作られ、地域外の公営住宅への移住が進められました。あからさまな治安対策としては、西成警察署と隣接する浪速警察署の警察官が増員され、釜ヶ崎の中に監視カメラが設置されるようになりました(釜ヶ崎は、日本で初めて監視カメラが設置された街だと言われています)。

 このように、最初は暴動を警戒して、労働者を監視し、管理することに力が注がれていたことがわかります。ところが、1960年代後半になると、風向きが変わります。1970年の大阪万博を控えて、大阪では建設労働の需要が増していました。建物や道路を造らないといけないにもかかわらず、働き手が圧倒的に不足していたのです。このような状況下では「危険である」ことなど二の次になり、「釜ヶ崎の労働者を活用すべきだ」と考えられるようになりました。そして、積極的に釜ヶ崎に労働者が集められるようになりました。

 労働者を集めるためには、集まる労働者のための受け皿が必要になります。そこで、単身の日雇労働者が滞在できる簡易宿所が次々と造られるようになりました。また、簡易宿所の組合には、日雇労働者の生活管理が期待されました。大規模な簡易宿所への建て替えが進むと、それ以外の住居が減っていきます。かつては子連れの家族や女性が住む場所もあったはずですが、徐々に減っていき、単身の男性日雇労働者の街へと形を変えていくことになります。つまり、現在までの釜ヶ崎の街の姿は、政策的に作られたものだったのです。

バブル経済の崩壊と高齢化が進む労働者

 1980年代は釜ヶ崎がもっとも活気にあふれた時期でした。賃金も高く、仕事はいくらでもあったので、当時を知るある人は「お金がなくなるまで働かなかった。明日働けばいいと思っていたから」とふりかえっていました。しかし、バブル経済の崩壊によって、1990年代はじめに釜ヶ崎の仕事も激減しました。そして、野宿生活をする人たちが増えていきました。景気の良い時期にも、野宿生活をする人がいなかったわけではありません。ふつうの社会保険に加入できるわけでもなく、家族もいない日雇労働者は、怪我をしたり、病気になったりして働けなくなれば、すぐに生活に困ってしまいます。また、歳を取れば、仕事があっても、連れて行ってもらえなくなったり、体力的に毎日働くことも難しくなっていきます。そういう意味では、潜在的なホームレス状態にあります。それが大きく顕在化したのが1990年代だったと言えるでしょう。 

釜ヶ崎の街のさらなる変化

 仕事が減り、野宿する人が増えると、日雇労働者向けに商売をしていた簡易宿所も困るようになります。そこで、簡易宿所のなかには、生活保護を受ける人向けの「福祉アパート」に業態を変えるところが出てきました。単に生活保護の受給者を入居させるだけでなく、日常の生活のサポートを提供するサポーティブハウスも作られていきました。釜ヶ崎の中にはもともと生活保護を受ける人のための救護施設や、その時にお金がなくても、お金のある時に無利子で払ってくれればいいという病院など、生活に困った人たちの相談にのってくれる施設が集まっています。

 また、海外や国内のバックパッカー向けに商売を始める簡易宿所も現れました。もともとは釜ヶ崎のドヤであったことを知らずに、就職活動で大阪に訪れる大学生が利用したり、外国人のバックパッカーが値段に惹かれて利用したりといったふうに、これまでは足を踏み入れることがなかったような人たちが訪れるきっかけとなるような道筋も作られています。

 現在の釜ヶ崎は大きな変化の真っ只中にあります。その変化を決定づけたのが、2012年にはじまり、現在も続いている「西成特区構想」です。次回は、この西成特区構想に関連した釜ヶ崎の現在を見たいと思います。

今回の課題と最終レポート課題

課題13

 今回の課題13では、遠隔授業で大変だったことについて教えて下さい。課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題13」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。今回の授業の感想を書いてくれても構いません。

最終レポート課題

 平常の課題とは別に最終レポート課題があります。これまで、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中での、自分自身の生活をふりかえるレポートを何度か提出してもらいました。最終レポートでは、これまでの自分が提出したレポートを読み直したうえで、この数ヶ月についての現在の考えと、今後の生活について思っていることを800字から1,000字以内にまとめて下さい。

 最終レポート課題は、来週の授業日にIBU.netの課題提出から提出してもらうので、それまでに準備しておいて下さい。

怠けの役割

怠け者を発見した経験

自分で自分を怠け者だと思う

 前回は、あなたが誰かを怠け者だと思った経験、あるいはあなた自身が怠け者扱いされた経験、または誰かが誰かを怠け者扱いしているのを見かけた経験などについてふりかえって書いてもらいました。

 読んでいてわりと多かったのが、自分で自分のことを怠け者だと思ってしまうというケースでした。テスト勉強をしなければならないとわかっているのに、ついつい後回しにしてしまった時に、自分自身について怠け者だと感じるというわけです。これは、逆のパターンもあります。自分はきちんと計画を立てて勉強をしている、するつもりでいるのに、たまたま勉強をしていない姿を見かけた親から、怠けていると叱られるといった経験です。

 自分で自分を怠け者だと感じる時には、自分のなかに「こうあるべき」という規範、信じているルールのようなものがあるのでしょう。そのルールを守れなかった時に「怠けた」と後ろめたく感じてしまいます。しかし、やろうと思っていても、どうしてもやる気が出ないという思いは誰にでも理解できることだと思います。苦手なことだったり、苦痛に感じたりすることをやるには、エネルギーが必要です。そのエネルギーを捻り出せないといったこともあるでしょう。

誰かが目標を設定している

 集団で何かをするときに経験したもどかしい思いについて書いてもらった時にもあったように、文化祭の準備や掃除などを怠ける人の話も多く出てきました。学校行事の場合、その学校に通うメンバーである以上、かかわらざるをえません。きちんと完了までこぎつけなければ、最終的には指導教員からの制裁が待っています。なので、真面目な人ほど、嫌でも計画的に取り組むことになります。

 誰もが同じだけのエネルギーを持っているとも限らないし、目標が一律に設定されてしまうと、それに着いて来れない人も出てきます。実際には着いて来れない事情はさまざまであるにもかかわらず、その事情を知り得ない場合、あるいは、知る余裕がない場合、私たちは怠け者を発見してしまいます。

「普通」の線引き

使用者と労働者の関係

 今日もまた、飯場労働者を題材に、怠けについて考えてみましょう。前回は飯場労働者同士のあいだで「怠け者」が作り出されるメカニズムを見てきました。今回は、飯場に依頼し、現場で労働者に指示を出す使用者と飯場労働者との関係に注目したいと思います。

 飯場労働者同士と違って、使用者と飯場労働者とのあいだには、はっきりした力関係があります。使用者の方が圧倒的に強い立場にあります。使用者が飯場に「あいつは仕事ができないからうちには寄こすな」とクレームを入れれば、その現場にはもう行けなくなるかもしれません。

 もし自分がミスをしたり、約束違反をしたのであれば、仕方がないかもしれません。しかし、労働者の側からも、働きやすい会社と働きにくい会社があります。

働きやすい会社と働きにくい会社

 ある飯場に入って働いた時、一緒に働いていた先輩労働者が「ここの会社の仕事にはあまり来たくないんや」といっていました。彼によれば「この会社はダラダラ仕事をする」「決まり事がない」ため、働きにくいというのです。また「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」「口答えしたらあかん」とも言っていました。

 「人夫出し飯場から人間が来ていることを知らない」とはどういうことでしょうか。これまで見てきたように、人夫出し飯場とは「仕事が多い時にだけ働く人間が欲しい」という特殊な要求に応えるための場所です。飯場で働く人間には、固定層と流動層があり、いつ仕事の契約が終わるかはまちまちで、人によっては1日しかその飯場で働かないこともあります。そのような特殊な事情のもとで、飯場労働者のあいだで、いわれなき「怠け者」が作り出されることも見てきました。

 そう言われてみると、この会社の社員から「休みの日は何しとるんや。もうすぐ給料日やろ?」と聞かれたことがあります。多くの会社は月末が給料日であることが多いし、月末でなくても社員の給料日は同じ日に設定されているのが一般的だと思います。しかし、飯場では「給料日」は人によって違います。こんな聞き方をしてくるところをみると、この会社が人夫出し飯場のことを知らずにいることがわかります。

 この会社は、人夫出し飯場がそのような場所であると知らず、いってみれば「普通の会社」だと思っているのです。6月24日のドキュメンタリーの紹介でも触れたように「普通」とは実は中身のない言葉です。「普通」とは「問題がない状態」を指しているにすぎず、また、それは「問題が見えていない状態」にすぎないのかもしれません。私たちが働いている飯場のことを「普通の会社」だと思っているこの会社は、人夫出し飯場独特の問題が「見えていない」会社であり、その事情をわかってくれない、事情を話そうとしても「口答えしている」で済まされてしまう会社だということです。

事情をわかってくれている会社

 このことは、人夫出し飯場の事情をわかってくれている会社と対照すると理解しやすいと思います。別の会社で、何人かと一緒に働いている時に、ある人が「ここの会社で、最初◯◯建設さんと呼ばれてドキッとした」と言っていました。◯◯建設というのは私たちが入っている飯場なので、「◯◯建設さん」と呼ばれることには何の不思議もないように思われます。ところが、彼がいうには、現場によっては人夫出し飯場から人が来ていることを隠さなければならない場合があるというのです。すると、この飯場で長く働いている人が「ここの現場は大丈夫だ」と教えてくれました。

 給料日にかんしても、この会社はきちんとわかっていることがうかがえました。同じ会社で働いているある日、現場に行く車の中で、その会社の社長が「明日の日曜日、誰か出てくれないか?」と言ってきました。誰も日曜日には働きたくないので、シーンとした空気になりました。その沈黙を破って、「◯◯建設さんと言われてドキッとした」と言っていた人が「1回満期にしたんですよ」とよくわからないことを言いました。

 この発言の意図をあとで聞いてみると、10日契約を終わらせたばかりで、これからまた10日働き続けなければならないので、あまり無理はしたくないのだと言いたかったのだとわかりました。契約が終わる1日前、2日前くらいであれば、もう1日がんばって、早く飯場を出るという選択もありかもしれません。しかし、お金が入る契約完了日までまだまだあるとなれば、1日無理をしてあとの数日しんどい思いをするよりは、普通のペースで働きたいと考えてもおかしくありません。

 飯場で働く労働者のことをよく知らない人に対してこんなことを言っても意味がありません。彼がこんな言い方をしたのは、この会社が自分たちの事情をわかってくれている会社であると知っていたからです。そういう意味で、この会社は飯場労働者にとって働きやすい会社だと言えるでしょう。

「普通」の線引きが変えられる時

 この会社は、飯場で働く労働者の事情をわかってくれている働きやすい会社でした。しかし、このような理解のある会社であっても、釜ヶ崎に対しては偏見を持っていて、しかもそのことを無自覚であることが透けて見えるような瞬間がありました。

 またある日の現場の休憩時間のことです。現場監督に言われて、私はみんなの缶コーヒーを買いに行きました。休憩室を出たくらいに「若いなあ」と話しはじめる声がしました。おそらく私のことを話題にしているのであろうことがわかりました。一緒に働いていた労働者の1人には、私が大学院生であることを話していたので、この雰囲気だと彼はそのことを教えてしまうだろうなと思いました。

 缶コーヒーを買って戻ってくると、案の定、私が大学院に通っていて、学業の合間に飯場に働きに来ていることが伝わっていました。「なら、バイトか」という問いかけに最初は話を合わせておこうかとも思いましたが、冗談まじりに「大学院というなら、研究でもしようとしてるのかと思った」といわれたので、実は飯場を研究したくて仕事をしているのだと打ち明けました。「それならわしらは(実験用の)モルモットやないか」と現場監督は笑い、一緒に働いていた飯場の労働者も「わしのこと、論文に載るかも知れんなあ」と面白がっていました。

 ひとしきり盛り上がった後、真顔になった現場監督は「土工は単に金儲けのためやったらやらん方がええぞ」といい、この現場の常連で飯場の固定層の労働者も「土工に染まってしまうからな」と話を合わせていました。「わしのこと、論文に載るかもしれんなあ」と言っていた、私と同じ流動層の労働者は「わしらのこと(を研究する)なんて簡単やろ、酒飲んでバクチ打っとるというだけで全部やろ」とおどけていいます。

 すると、現場監督が「西成(釜ヶ崎)は人の住むところじゃないな」といい出しました。固定層の労働者もうなずいて同意して、「明け方、自販機の前で酒を買って飲んでいたら殴られて金を盗られたことがある」と自分の体験談を話しました。

 このやりとりは何を意味しているのでしょうか。この会社は人夫出し飯場で働く労働者の事情をわかってくれている会社でした。もう一方の会社が、人夫出し飯場という独特の場所について、知ろうともしていないのに対して、その事情を知ったうえで「普通に接してくれる会社」ということになります。ところが、現場監督と固定層の労働者のやりとりで示されているのは、「釜ヶ崎は普通の場所じゃない」ということです。

 このやりとりが、飯場での短期の契約が終われば、また釜ヶ崎に帰るであろう流動層の労働者の前で行われたことも重要です。当事者の目の前で何のためらいもなくこのようなやりとりが行われるということは、これが問題だという意識が彼らに無いことを示しています。また、固定層の労働者も元は釜ヶ崎からやってきている人が多いはずだし、釜ヶ崎で強盗被害にあったということは、彼も釜ヶ崎で暮らしていたということです。しかし、現在の彼は釜ヶ崎からは距離をとり、「飯場を含む普通の世界」を生きているわけです。

仕事の中で怠け者扱いされる人たち

排除されながらも受け入れられる

 ここまでで見てきたように、人夫出し飯場がその存在を認められていない場合があると思えば、認められている場合もあり、しかし、その場合でも、釜ヶ崎については否定的に語られるというように「何が普通か」という線引きは、人と人とのやりとりの中で引き直されていることがわかります。しかし、どの場合も変わらないのは、彼らが労働力である限りは受け入れられているということです。彼らは、ある部分では排除されながらも、ある部分では受け入れられています。このように、彼らの立場があやふやで、ふりまわされがちなのは、彼らにいうことを聞かせるための圧力がかけられているためだと言えるでしょう。

「楽することばっかり考えるな」

 今度は、仕事の中での使用者と労働者のやりとりを見ていきましょう。

 また別のある会社で、その会社の社員や下請け会社の社員の下で、ふたつのチームに分かれて、同じ現場で仕事をしていました。その日の仕事は、現場では法面(のりめん)と呼ばれる土手の斜面の下に、U字溝のブロックを設置していく作業でした。その作業に必要な、砂を入れた袋やセメントを資材置き場まで取りに行かねばなりません。私が社員の人の手元をやり、もう一人がセメント袋を取りに行ったのですが、なかなか戻ってきません。社員の人に言われて様子を見に行くと、法面の途中でセメントを落としてしまったらしく、袋が破れて中身が散らばっている前で呆然としていました。

 砂を入れた土嚢袋を運んでこいと指示された時には、指示をした社員の手元まで持ってくればいいものを、何とか下まで運んできたら力尽きて、その場に下ろしてしまっていました。自分が落としたセメント袋の処理もできず、気も利かない彼に対し、社員の人は「あのおっさん、楽することばっかり考えるな」と腹を立てていました。

 午後になると、彼はもう当てにされなくなっており、捨てたヘドロをスコップで平らにしておけと、厄介払いされていました。

 帰りの車の中で待っていると、社員の人たちが道具の片付けをはじめたので、私を含めた他のメンバーは手伝いに出たのですが、彼だけは疲れていたのか、単に気づかなかったのか、車の中に座り続けていたため、後でこっぴどく叱られていました。その姿を見て別の労働者は「あれは危ないな。どっか悪いんや」と同情するように言っていました。

 一緒に働いていて、私自身も正直もどかしい思いをしたのは事実です。しかし、私に向かって仕事の段取りについて話しかけてくることもあり、積極的に仕事にかかわろうという気を持っていることがうかがえました。また、別の労働者が言っているように何か健康上の問題を抱えていたのかもしれません。もしそうなら、彼でもできるような仕事を考えて、少しでも貢献してもらえるような工夫が必要なのではないでしょうか。厄介払いをしておいて、あとで激怒するというのもちょっと勝手な気がします。

「10のうち、11も12もやれとはいわん」

 健康上の問題がある人のケースはちょっと極端な例に感じられたかもしれません。別のケースについても見てみましょう。

 この日、私は行ける現場がないということで、休みにさせられました。仕事がないのは仕方がないと部屋でゆっくりしていると、しばらくして飯場の社員に声をかけられ、「今から仕事に行ってくれるか?」と頼まれました。ある現場で、一人の労働者が現場監督とトラブルを起こして帰ってしまったので、その埋め合わせとして行ってくれないかというのです。

 現場に到着すると、広い敷地でユンボとトラックが作業をしていました。トラックが砕石という小さな石を運んできて、ユンボで砕石をまいていきます。それを、飯場の労働者がスコップで平らにならしていくという作業をやっていました。スコップで平らにならすといっても、これは結構大変な作業です。オートレベルという機械を使って、ポイントポイントで高さを確認しなければならないし、ちゃんと平らになっているかどうかを確かめるには慣れが必要です。

 最初、私がこれをやるように言われて、少しためらっていると「やったことないもんやったらあかんわ、代わってもらえ」と言われ、他の労働者に代わってもらうことになりました。代わってくれた労働者も「わし遅いけど」と自信なさげでしたが、「ゆっくりでええわ」と言って引き受けていました。

 ほどなくして休憩になり、休憩所で他の労働者と3人で休んでいると、ユンボに乗っていた現場監督が入ってきました。そして、次のように語り出しました。

「難しいことは要求しとらんのやで。10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらええんや。5じゃ困るけどな。2人呼ばんといかんやろ」

 私は、なるほどと適当に相づちをうちながら聞いていましたが、他の2人は聞き流しているようでした。これは、一人途中で帰ってしまったことについて、悪いのは自分ではない、自分はそんなに無茶な要求はしていないのだという現場監督の言い分だったのでしょう。実際帰ってしまった人がどう思っていたのかはわかりません。しかし、この作業は結構大変なものだと思います。次から次に砕石をまいていくユンボに対し、1人でそれを均していくのは、作業そのものの大変さもあるし、急かされるような圧力も感じるはずです。「ゆっくりでええから」という言葉が出てくるのも、一人逃げられたあとで、労働者に気を遣っているからこそでしょう。

 「10のうち8か9やってくれればいい」と言われると、甘めに条件を設定してくれているように感じられますが、そもそもその「10段階」の設定はそう言っている本人によるものです。100あるものを10に分けたとしても10段階だし、120あるものを10に分けたとしても10段階です。100あるものの9段階目は90であったとしても、120あるものの9段階目は102なのだから、実際は10要求されているのと変わらないかもしれません。

 「これくらいできて当たり前」という標準は、使う側が恣意的に決めているだけで、必ずしも働く側の事情を考慮したものとは言えません。

どんな仕事をどれくらいやるのか

 どんな仕事をどれくらいやるのかを決めるのは人を使う側の人間です。したがって、使用者の方が労働者より優位な立場にあると言えます。

 どんな仕事をどれくらいやるのかを決められるということは、裏返せば、それらのことを決める責任があるということでもあるはずです。ところが、使用者の側は、それを「決めない」ままに労働者を働かせることもできてしまいます。

 「ダラダラ仕事をする」「決まり事がない」と言われていた会社がありました。「人夫出しから人間が来ていることを知らない」と言われていたこの会社は、いろんな面で働きにくいところがありました。

 その日の仕事がはじまる時間になっても、会社からの指示がありません。先に外に出て待っていた方がいいかと思っていたら、一緒に来ていた他の労働者が「まだ車の中で待っていたらいいよ」というので、しばらく時間を潰していました。こういったことはこの会社ではよくあることなのでしょう。

 この現場は芦屋にある豪邸の建築現場でした。山の斜面を切り出して、テニスコートも付いた広い敷地を持っています。少ししてから、下の方で斜面を掘り返していたユンボのところまで出てくるように、社員の人たちに呼ばれました。「住宅地だから機械を動かせるのは8時半からだけど、仕事ははじまってるんだから、出てきておいてもらわないと困る」と小言を言われました。

 そうして呼ばれてからも、ユンボの運転手は相変わらず地面を掘り返しており、特に指示を出されるわけでもありません。仕方がないので、ユンボがとりこぼして転がってくる大きめの石をスコップで拾って投げ返していました。以前、同じようなシチュエーションで他の人がやっていたことなので真似をしてやったものの、あまり意味のある作業とは思えないので身が入りません。ほかにも、ユンボが停止した時に、キャタピラでできたでこぼこを踏みならして平らにしたりしていましたが、再びユンボが通ればまた元どおりになるわけだから、こんなことをしていてもかえって怒られるのではないかという気持ちもありました。

 このような「やっつけ仕事」をしていると、ユンボの運転手と打ち合わせをしていた現場監督が「平らにならすんなら、道具使ってちゃんとやってくれるか?」と口を出してきました。言われた通りにやっていると、まだそのやり方が気に入らなかったようで、私から道具を奪って「見本」を見せて、「こんなの平らにならそういう気があればできることちゃう?」と嫌味を言われました。

 このやりとりがあってから、私は「仕事のできないやつ」というレッテルを貼られてしまいました。普通に仕事をしていても「その辺の女の子の方が力あるんちゃうか?」「先輩のやることよう見て仕事覚えろよ」と茶々を入れられました。その日の仕事は、バカにされるほどの仕事ではなかったのですが、いったん目をつけられてしまうと、何をやってもバカにされてしまいます。

「怠けているように見られてはならない」

 ここで、何回か前に扱った飯場労働の心得を思い出して下さい。飯場労働の心得のなかに、「怠けているように見られてはならない」というものがありました。実際には、何をどうするべきかという指示が出ていない場合、そのタイミングでは何もすることがないし、余計なことはしなくていいような場合があります。しかし、こういう時に何もしないでいると「怠けている」と思われてしまう危険があります。
 労働者はよく、言われもしないのに掃除を始めることがあります。敷きつめられた鉄板の上に散らばった砂をスコップでていねいに取り除いていくというのも定番作業です。この作業をしながら、先輩労働者が得意げに「こうやっとったら仕事しとるように見えるやろ?」と笑いかけてきたこともあります。以前にも述べたように、掃除は他にやってもらいたいことがない時にやらせる作業でもあります。造りかけの広大な建造物の中で掃除を指示された時、物陰に隠れてサボりながら「こうしとる時間が一番長いな」などとうそぶいていたこともあります。ここまで来ると、労働者の方も確信犯的に怠けています。

怠けるのも仕事のうち

 「怠けているように見られてはいけない」ということは、実質的には、彼らは怠けているのです。しかし、彼らがそうしなければならないのは、指示を出すべき人間が指示を出していないせいです。指示を出すべき人間が自分の責任を果たしていないのだとすれば、怠けているのは指示を出すべき人間の方かもしれません。にもかかわらず、出すべき指示を出していない人間は、指示がなくて困っている労働者に対して、逆に「怠けるな!」と怒ってくるというおかしなことが起こります。
 そういう意味では、労働者にとっては「怠けるのも仕事のうち」だし、彼らが怠けていることの責任は彼らにはないのです。
 怠けるということを突きつめていくと、いろんな問題が見えてきます。人はうまくいかないことがあると、怠け者を発見するのかもしれません。時には自分で自分を怠け者だと思って落ち込んだりもします。しかし、そんなふうに自分を貶めてみるより、やるべきことにさっさと取りかかった方がよいでしょう。
 他人のことを「怠けている!」と怒っている人も、実は何かの犠牲者なのかもしれません。怒りのエネルギーをムダ遣いするより、自分自身が余裕を持って楽しく生きられるような道を探した方がいいかもしれません。「怠けてはいけない」と自分で自分を縛ってしまっている部分もあるはずです。

今回の課題

課題12

 次回は、再び釜ヶ崎について考えてみようと思います。今回の授業のなかで、釜ヶ崎は「人の住むところじゃない」などと言われていました。しかし、実際の釜ヶ崎の労働者は「お互いさま」という考え方を持っています。

 今回は、自分がこれまで生きてきた中で、お気に入りの場所、あるいは「特に用事がなくても立ち寄ってしまってしまう」ような場所について、ふりかえって書いて下さい。

 課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題12」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。

怠け者を作り出すメカニズム

おわび

 まず最初にお詫びしなければならないことがあります。前回の課題番号は10であるにもかかわらず、見出しと本文で番号が異なっていました。混乱させてしまい、申しわけありませんでした。課題の受理と出欠の登録は問題なく処理しているはずですが、出したはずなのに登録されていないという人は、お手数ですが、IBU.netのQ&Aか、メールで教えて下さい。

大勢で物事を進める際のもどかしい経験

人数の問題

 前回は、大勢で物事を進める際にもどかしい思いをした経験について、書いてもらいました。出来事を詳細に書き起こしてくれた人も多く、とても面白く読ませていただきました。

 トピックとして多かったのは、部活動やアルバイトのような日常の出来事もあれば、修学旅行や文化祭といったイベントの事例もありました。

 修学旅行の自由行動の際、仲の良い友達同士で回りたいというので、二班一緒に行動したところ、12人の大所帯になってしまい、行き先がスムーズに決まらずに目的地をろくに回ることができなかったという話がありました。人数が一定以上になると、物事がうまく決まらなくなるということがあるのかもしれません。

 グループワークをする時や、発表をしなければならない時に、大勢の前で話すのが苦手だということを書いてくれた人も結構いました。グループワークのような小集団で作業をしなければいけない時に、進行役を決めるのもわりと大変です。

サボる人にイライラする

 文化祭でも、何をやるのかを決めるのに時間がかかったり、進め方でも行ったり来たりの議論になってじれったい思いをしたという話がいくつかありました。クラスで完成させなければならない制作物がある場合に、常に作業に参加する人たちと、ろくに参加せずサボっている人たちとに分かれてしまうという話も目立ちました。文化祭当日までに間に合うか怪しくなったときに、それまで手伝っていなかったクラスメイトたちが手伝うようになってくれたのはいいものの、「期日までに完成できたのは自分たちのおかげだ」と大きな態度を取りはじめたことに怒りを覚えたという話もありました。

 部活動では、経験のある指導者(顧問)がいないため、自分たちで練習メニューを決めねばならず、文句を言う部員に合わせざるをえなくなったというジレンマを書いてくれた人がいました。また、掃除や片付けをしなければいけない時にも、やはり積極的にやる人とやらない人との温度差が問題になります。

意思疎通の困難

 このような問題は、意思疎通の問題だといえるでしょう。何かやらなければならないことに対して、ちょうどいい人数があります。ちょうどいい人数より多過ぎても問題だし、少な過ぎても問題になります。また、物事をうまく進行させるには、役割分担も必要です。役割分担をするには、どのような手順で物事を進めていくのかについての見通しを立てる必要があります。

 物事を進めていく手順の見通しのことを建設現場ではよく「段取り」と言います。段取りを立てるのは飯場の労働者を使う側の人間の役割です。段取りがよければその日の仕事はスムーズにいくし、段取りが悪ければ、無駄に疲れてしまったり、仕事が終わらなかったりします。何人でどれくらいの作業をするのかを決めるのも段取りの一部です。

 ゆえに、飯場の労働者はよく「この現場は段取りが悪いわ」と言います。そして「こういう現場やったら、最初にこれをやらんとあかんわ」「もっと人を呼ばなあかんわ」などと、お互いに語り出します。また、仕事の節目節目で、こういう場合はこうするべきだという確認を取り合っているようなところもあります。

 労働者が仕事について語るのは、彼らに有能さへのこだわりがあるためでもあります。「自分は仕事がわかっている」ことを示すためには、まず仕事について語れる必要があるし、誰かの仕事の語りについて話を合わせられることも、仕事がわかっている証明になります。

 このようなおしゃべりが、実際に仕事をする時の意思疎通に役立っています。ふだん偉そうなことを言っていて、実際に仕事ができなければ元も子もありません。

怠け者を作り出すメカニズム

働き者の中になぜ怠け者が出現するの

 飯場の労働者は基本的に働き者だという話をしてきました。しかし、働き者であるがゆえに、固定層と流動層という立場の違いの中で、行き違いが起こることもあります。その行き違いは、サボろうとするからではなく、むしろ一生懸命働こうとするから起こるものでした。

 ところが、行き違いの起こる固定層と流動層の関係の中で、怠け者扱いされる人が出てきます。働き者である飯場労働者のあいだで、なぜ怠け者が出現するのでしょうか。ここには、実際に怠けていない人を怠け者に仕立て上げてしまうメカニズムが働いています。今回は怠け者が作り出されるメカニズムについてみていきましょう。

固定層と流動層、どちらが怠け者か

 固定層と流動層を分けるのは、一つの飯場での滞在期間と滞在の意思の違いでした。固定層は一つの飯場に長くいるし、できるだけ長くいたいと思っている人たちです。その飯場の主力と認められて、仕事が少ない時期にも仕事を回してもらえるようになりたいと思って一生懸命働いています。

 固定層の中にも、認められている程度の違いがあるので、いったん自分の地位を固めた人は、仕事が多い時期には少しくらい手を抜いたり、仕事を休んだりしてもいいかもしれません。しかし、仕事が少ない時期にも出してもらえるかどうかは、ふだんの働きぶりによって違ってくるそうです。「ふだんから休む人間は暇な時にも休まされる」というので、固定層だからといってサボろうとするということはありません。

 一方の流動層は、あまり飯場にいたいとは思っていません。一生懸命働いても、仕事が少ない時期には休まされるのだから、一つの飯場にしがみついても割が合わないと思っています。仕事が少なかったり、条件の悪い飯場ならすぐに出ていけばいいとも思っています。一度来た飯場にもう一度来なければならないということもないので、一度切りと割り切って手抜きをすることもあるかもしれません。しかし、早く飯場を出るためには、短い契約期間中でも休まずに働き切る必要があります。休まされれば休まされただけ飯代が引かれてしまうし、飯場で一日休まされても楽しいことなどありません。毎日仕事に出続けるためには、やはり真面目に働いて、勤勉さをアピールしておく必要があります。

 つまり、固定層も流動層も「できるだけ毎日仕事に出たい」という考えは違わないし、真面目に働くと思われておく必要があります。

怠け者を疑うまなざし

 実際は怠けていないにもかかわらず、怠け者扱いされる人が出てくるのはなぜなのか、怠け者扱いされる人はどういう人なのかというと、それは流動層の中から現れます。そして、誰が流動層を怠け者扱いするかというと、これは固定層です。
 ある日の仕事の現場です。この現場は、シネコンとショッピングモール、大型スーパーが一体となった施設の建築現場でした。聞くところによれば、1日に800人もの人間が働いているとのことで、私が入っていた飯場からも、毎日20人以上の労働者が何台もの車で通っていました。

 その日、私は固定層のリーダーの下で、ほかの流動層2人と一緒に、合計4人で作業をしていました。流動層の中では、私はその現場での経験が長く、リーダー役の固定層とも顔見知りでした。

 その日の朝礼の後、仕事に取りかかる前に、固定層のリーダーが私を呼んで次のように耳打ちしました。

「あの二人、ちょっと目を離すとどっか行きよるから目光らせといて」

 固定層のリーダーは、流動層の2人について、きちんと見張っておかないと、隙を見てサボろうとするというのです。この耳打ちに私は驚きました。流動層の2人とは、私も一緒に働いたことがあったし、こっそり怠けようとするような人たちではないことを、私は知っていました。

怠けていたとからかわれる

 私自身が怠け者扱いされたこともあります。同じ現場で、私はよく軽トラックの運転をしていました。コンクリートを運ぶミキサー車は、建設中の大きな建物の内部まで入ることができません。そこで、軽トラでミキサー車とコンクリート打設の現場とを行ったり来たりして、セメントを荷台に積んで運ぶ必要がありました。軽トラを使わなければ、仕事にならなかったのです。

 ところが、その日の朝に軽トラをチェックすると、ガソリンが切れかけていました。折り合い悪く、倉庫にストックされているガソリンのタンクも空っぽだったので、ガソリンの給油車を呼ばなければいけませんでした。とにかく給油を済ませてからでないと仕事が始まらないので、大きな現場の入り口付近で、給油車が来るのを私はしばらく待っていました。

 この日の夕方、飯場に戻り、夕食をとりに食堂に行ったところ、この現場で職長をしている固定層の小宮さんから「お前、昼に1時間サボっとったろ」と声をかけられました。ほかに人がいる前でこんなことをいきなり言われてびっくりしました。彼が言っているのは、この給油車を待っている時間のことを指していることは推測できました。そして、彼は本気で私がサボっていたと思っているわけではなく、大勢の前でこんなことを言って私をからかっていたのだと思います。

 からかわれるというのは必ずしも悪いことではありません。「笑って許せる」相手とでなければ、「からかう」というやりとりはリスクが高く、「からかう」ことは、相手に対して「笑って許せる」関係であると表現しているようなところがあります。このことも、笑って流してしまえばいいようなことです。

一対一のやりとりと、一対多のやりとりの違い

 しかし、このようなからかいも、一対一の関係で行われる場合と、一対多数の関係で行われる場合とでは、意味合いが異なってきます。一緒に働く仲間を怠け者であるかのように耳打ちする行為も、私とリーダーとの一対一のやりとりであれば、私が気にしなければ何の問題にもなりません。

 次の事例も、やはり同じ現場での話です。この日は、先ほどの小宮さんをリーダーに、もう一人固定層の森さん、流動層の柿田さんと一緒のチームで働いていました。運送屋で働いていた経験がある柿田さんは、もっぱら軽トラの運転を任されていました。何せ広い現場なので、車を使わないと仕事になりません。それもうまく段取りを組んで進めていかなければいけません。小宮さんは、一人で軽トラで先に資材置き場に行って、のちの作業の下準備を始めておくようにと柿田さんに指示を出しました。

 小宮さんに言われて車を走らせる柿田さんの姿を見送りながら、森さんは「あいつ一人で行かせると道がわからんのじゃないか?」と心配そうに言います。柿田さんは方向音痴気味なところがあるので、私もその心配に同意しました。しかし、小宮さんは「あいつは返事だけは威勢がいいけどな」とせせら笑うように言いました。私と森さんと違って、小宮さんは柿田さんをバカにしていることがわかります。

 ちょうど休憩時間になったので、私は小宮さんの運転する車で、休憩所まで行くことになりました。その二人きりの車中で私は、小宮さんが柿田さんのことをさらにバカにするような独り言を耳にして、居心地の悪い思いをしました。一緒に働く仲間が悪く言われるのを聞くのはあまり気持ちのいいものではありません。小宮さんがどこまで意識していたのかわかりませんが、悪口も聞かせていい相手とそうでない相手がいます。悪口を聞かされるということは、そうした見方を共有しても構わない相手だと思われているというメッセージにもなりうるからです。

多数の中でからかわれること

 今度は、休憩所で起こったことです。休憩所には私の他に流動層はおらず、固定層の労働者が小宮さんの他に3人いました。そのうち1人は離れたところに座っていて、残り2人の20代の若い労働者が小宮さんと一緒に休憩時間を過ごしていました。

 暑い夏の日の現場には、かき氷の屋台が来ており、一杯目を食べ終えた2人の若者と小宮さんは、ジャンケンで負けたやつがみんなに奢るという賭けをはじめました。からかうという行為と同じように、賭けをする関係もまた、ある程度の親密さがそこにあることを表しています。すぐそばにいるにもかかわらず、私はこの賭けジャンケンには誘われません。私と彼らとでは、関係の深さが異なるというわけです。

 賭けジャンケンに勝った小宮さんは、職長会でもよくジュースを賭けてジャンケンをするのだと語りはじめました。3人のやりとりを黙って聞いていた私に対して、小宮さんがふいに「わしは1,000円しか持ってなくてもやるで」と話しかけてきました。もともと蚊帳の外で聞いていた私は、「小宮さんは強気ですね」と当たり障りのないコメントをするしかできませんでした。

 小宮さんは、私を指して「こいつはすぐ休もうとする」と言ってからかってきました。ここまでなら以前のからかいと同じです。ところが、今回はこんなふうに言ってきました。

「柿田と一緒になってな」

 すると、小宮さんの話の行方を黙って見守っていた若い2人はここぞとばかりに笑い出しました。これもからかいには違いがありません。小宮さんにとっても、彼らにとっても、これが事実であるかどうかは関係がありません。重要なのは私と柿田さんは彼らに笑われる立場であり、彼らは私たちを笑う立場であるということです。

 これは、私と柿田さんが笑われたというだけではなく、固定層は流動層を一方的に怠け者扱いして優位に立つことができることを表しています。このような場面で、私が何を言っても反論することができません。必死になって反論すればするほど、「冗談で言っているのに、何をそんなにムキになっているのか」と笑われるだけでしょう。

 このようなからかいが可能になるのは、流動層に比べて固定層は仲間を作りやすいからでしょう。このようなからかいのコンビネーションを可能にするためには、ある程度付き合いのある仲間が必要になります。仲良くなってもすぐに相手がいなくなってしまう流動層には、仲間の数がもともと少ないのです。

流動層はいつも怠け者扱いされている

 固定層と流動層のあいだに非対称的な関係があることに気づくと、ふだんから流動層は固定層から怠け者扱いされていることに気づきます。

 最初に出てきた固定層のリーダーは、契約を終えて飯場から出て行く流動層の姿を見かけては、「3、4日もすれば戻ってくるわ」とバカにするように言っていました。せっかく飯場で稼いで貯めたお金をつまらないことで浪費して、また飯場に入って来ざるを得なくなる、彼はそう言いたいのです。確かに、ついこないだ飯場を出たと思った人がすぐにまた入ってくるということはあります。訳を聞いてみると、バツの悪そうな笑みを浮かべて、パチンコで負けてしまったことを打ち明けてくれました。ここだけとらえると、なるほど流動層はだらしない生活を送っているのかもしれません。ところが、そうやって流動層をバカにしている彼も、給料日のすぐ後に肩を落としていることがあり、ほかの人に事情を聞くと、やはりパチンコで負けて有り金を使い果たしてしまったということでした。

なぜ怠け者扱いするのか

 固定層はなぜ流動層を怠け者扱いするのでしょうか。実際には怠け者というわけではないし、一緒に働く仲間をバカにするのはあまり褒められたことではありません。固定層が流動層を怠け者扱いするには、そうしなければならないわけがあります。

 前回あったように、飯場労働者は仕事熱心であるあまり、独断専行してしまうことがあります。そうした時に迷惑を被るのは、その時にグループのリーダーを任されている人で、リーダーになりやすいのは飯場に長くいる人であり、固定層である場合が多くなります。流動層も固定層もその身分に違いはありません。リーダーをやるからと言って、高い給料をもらっているわけではないし、必ずしも上下関係を規定する肩書きがあるわけでもありません。固定層は流動層がいうことを聞いてくれるようにお願いするしかありません。

 ところが、ここで怠け者扱いをすることで、固定層は流動層にいうことを聞かざるをえなくするような圧力をかけることができます。たとえ言いがかりであると分かっていても、怠け者扱いされれば悔しいので、流動層はより真面目に働くようになります。変な揚げ足取りをされないために、隙を見せないように気をつけなければなりません。もっとも、自分はきちんと働いているのに、こんな不愉快な思いをさせられるいわれはないと思う人もいるでしょう。そういう人は、この不愉快な飯場からさっさと出て行くでしょう。あるいは、真面目に働いてもバカにされるなら意味がないと手を抜くかもしれません。しかし、そうするとその人は自分から本当に怠け者になってしまいます。

 このように、怠け者扱いすることで、言うことを聞くような圧力をかけることができるし、言うことを聞く気がない人間を追い払うこともできます。

怠け者扱いの落とし穴

 しかし、いくら真面目に働いても、流動層でいる限り、怠け者扱いの被害から抜け出すことはできません。不当な怠け者扱いをされないようにするには、自分自身が怠け者扱いする側にならなければなりません。つまり、固定層になればいいのです。固定層になって、一緒に流動層をからかうようにすればいいわけです。

 実は、怠け者扱いをされて、からかわれるということは、その人が固定層から認められていることの裏返しでもあります。「こいつは見込みがある」と思われているからこそ、揺さぶりをかけて試しているのです。

 そうして固定層になったとしても安泰というわけではありません。流動層を怠け者扱いする固定層の中でも、やはり評価の目が光っています。偉そうなことを言いつつサボっていれば、仲間内で悪く言われるでしょう。結局はがんばり続けなければならないのです。

本当に悪いのは誰だろう

 固定層と流動層のあいだに行き違いが起こるのは、仕事の量によって流動層が増えたり減ったりするからです。これは、仕事のある時にだけ日雇で働き手を増やし、仕事がなくなれば雇うのをやめて、損しないようにするためです。となれば、固定層と流動層の行き違いや、そこから生じるトラブルの責任は労働者たちにはないことになります。しかし、何か問題が起これば対応しなければならないのは労働者自身だし、その労働者同士が不毛な争いを強いられています。

 誰かが怠け者扱いされる時、なぜその人が怠け者だと言われるのか、誰が誰に対してそのように言うのかを考えてみる必要があります。

今回の課題

課題11

 今回は、あなたが誰かを怠け者だと思った経験、あるいはあなた自身が怠け者扱いされた経験についてふりかえって書いてみて下さい。誰かが誰かを怠け者扱いしているのを見かけた経験でも構いません。そして、実際にはどうだったのかについても考えてみて下さい。

 課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題11」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換えて下さい)宛にメールで提出して下さい。

飯場の労働文化

経験豊富な者からそうでない者への手助け

 前回の課題では、経験豊富な者からそうでない者への手助けについて、みなさんがこれまで経験したことについて書いていただきました。特に多かったのはやはりアルバイトや部活動での経験でしたが、道に迷っている時に、見知らぬ人に親切にしていただいた経験をていねいに書き起こしてくれた人もいました。

 アルバイトの経験として面白かったのが、コンビニのアルバイトのエピソードでした。自分自身が新入りのアルバイトを迎え入れる時に、なるべくフランクに話しかけて仕事を教えてあげるというのです。その理由は、コンビニの仕事はとにかくヒマな時間が多く、アルバイト同士が話をして時間を潰すことが多いからだそうです。この時間を違和感なく過ごすために、人間関係を良好に作っていけるような配慮を心がけているというエピソードは、なるほどと思わされました。

 直接的な見返りも求めずに、誰かが誰かに親切にするのはどうしてでしょうか。まず、前回の寄せ場飯場の労働者同士の関係にもあったように「自分もかつては何も分からずに困っていたところを助けてもらったことがあるから」つまり「お互いさま」だという意識があります。

 また、自分自身が助けられた経験はなかったとしても「自分が困った経験があるから、ほっておけない」ということもあると思います。初めてそのことをやる人、初めてそのような状況に陥った人にとっては「できなくて当たり前」である、「わかるはずがない」ことを、苦労したのちに理解したという経験を持つ人は、かつて大変な思いをした自分のことを思い出して、「なんとかしてやりたい」「あの時、助けてくれる人がいれば」と思って、過去の自分を助け出すような気持ちになるのかもしれません。

 「ちゃんと教えておかないと、あとあと自分たちが困るから」という理由がある場合も考えられます。早く一人前になってもらわないと、結局自分たちの仕事が増えてしまうから、きちんと教育をしておいた方が、結果的に自分たちのためになるというわけです。

助け合いの原資

 誰かを誰かが助けようという気持ちになるのは、助け合いの原資(元手)となるようなものが、私たち一人ひとりの中にストックされているからではないでしょうか。かつて「助けてもらった経験」があって、それを別の困っている人と出会ったときに返そうという気持ちになるのは「助け合いの原資」が働いているからです。

 また、自分がまったく経験したことのない世界に入っていこうというときに、不安を抱えながらも、仲間と認めてもらえるようにがんばろうという気持ちになれるのは「かつて、受け入れられた経験」があるからではないでしょうか。相手がどんな気持ちで自分のことを受け入れてくれたのか、本当のところはわかりません。相手には相手の思惑があるかもしれません。しかし、新参者にとっては「受け入れてもらえた」と感じられた事実が重要で、それは不安を抱えながらもがんばりたいと思っていた自分が受け入れられた経験となります。

 助けてもらえることを期待しつつ、とにかく最初はがんばろうという気持ちになれるのもまた、助け合いの原資の別の側面だと言えます。助けてあげようという気持ちだけがあってもダメだし、がんばって認められたいという気持ちだけあってもうまくいきません。人と人がいっしょに何かを作り上げていくためには、どこかで計算を超えた、重なり合う似たような経験の蓄積が必要になるのではないでしょうか。

飯場の仕事

手元の役割

 飯場で働く労働者の仕事はよく「手元」と言われます。「手元」という言葉は、特別な資格や技術は求められず、誰かの手伝いをする補助的な役割であることを示しています。

 これまで見てきたように、飯場の労働者は、現場で人手が足りないときにだけ呼ばれる「日雇い労働」なので、今日仕事に呼ばれたからといって明日も呼ばれるとは限りません。毎日仕事があるとしても、昨日と同じ会社に行くとは限らないし、同じ会社であっても昨日とは違う現場で、違った人たちと一緒に働くことになるかもしれません。一緒に仕事に行く同じ飯場の仲間にしても、誰と一緒になるかはその日になってみないとわかりません。みんな契約で入ってきた日が異なるので、昨日まで一緒に働いていた人が今日はもう飯場からいなくなっているかもしれないし、次々と新しい人が入ってきては出て行くのが当たり前です。

飯場労働の心得

 すでに述べたように、飯場の仕事は「特別な資格や技術は求められず、誰かの手伝いをする補助的な役割」である「手元仕事」です。「誰にでもできる」「代わりはいくらでもいる」と軽く見られるようなところもあります。しかし、この手元仕事には、いくつかコツのようなものがあり、このコツをふまえていないとうまく働くことができません。

 飯場労働にはいくつかの心得のようなものがあります。これを、ここでは「飯場労働の心得」と呼んでおきましょう。飯場労働の心得には、次の三つがあります。

  1. 「手元は言われたことをやっていればいい」
  2. 「働きすぎてはいけない」
  3. 「怠けているように見られてはいけない」
手元は言われたことをやっていればいい

 この言葉は、飯場労働の現場でよく耳にする言葉です。わりとベテランの労働者でも「わしらは手元やからな、言われたことをやっとったらええ」などと言います。

 「特別な資格や技術は求められず、誰かの手伝いをする補助的な役割」とは、裏を返せば、いろんなことをやらなければならない仕事ということです。何をやらされるかはその日になってみなければわからないし、同じことをやらされる場合も、現場によって考慮しなければならないことが違ったり、相手によってやり方が異なったりすることがあります。「こんな仕事は大して難しくない」と分かっていても、まずは何をどのように求められるかに耳を傾ける必要があります。

 これは、飯場の労働者を使う側(使用者)にとっても大切なことです。さして難しいことではないからこそ、変なことをせずに、言われたとおりにやって欲しいという思いがあります。使用者にとっても「言われたことを言われたとおりにやってくれる」ことは評価に値することなのです。

 また、どんなにベテランの労働者でも、初めてやらされることはいくらでもあります。そんな時は、やったことのないことを勝手な推測で無理にやるのではなく、「やったことがないからわからない。教えてもらわないとわからない」と素直に言いやすくしておく方が都合がいいという事情もあります。「わからないことを恥じる必要はない」と思っておくことも、飯場労働の心得なのです。

働きすぎてはいけない

 次の心得ですが、「労働の心得」が「働きすぎてはいけない」というのは、奇妙に思えるかもしれません。使う側の人間も、怠け者では困るはずです。しかし、まずは働く側の立場から考えていきましょう。

 飯場の労働者は日雇いなので、一日しっかり働かなければお金をもらえません。どんなに肉体的につらい仕事でも、一日働き切る必要があります。したがって、ある程度のペース配分は必要だし、場合によっては手を抜く必要もあります。

 使用者側から考えてみても、必要もないのにがむしゃらに働かれては困るという事情もあります。現場では、しょっちゅう掃除や片付けの仕事をやらされることがあります。これは、その時に、ほかにやらなければならない仕事がないからです。

 必要なものを運んでもらうとか、何かを手渡してもらう、持ち上げてもらうといった些細なことでも、誰かいてくれなければ仕事に差し支えます。そういった「誰にでもできる」けれども、「誰かいてくれなければできない」ことをするのが手元の役割です。しかし、労働時間のあいだ、常にそばにいてもらわなければならないということはありません。「今はゆっくりしておいてくれればいい」「ちょっと時間を潰しておいてくれ」という時があります。そういう時には「掃除でもしておいてもらおう」「片付けでもしておいてもらおう」と考えます。こういう時には、やる気を出して一生懸命働いてくれる必要はありません。「働きすぎなくていい」のです。

怠けているように見られてはいけない

 このように「働きすぎてはいけない」というのは、単に労働者側の手を抜こうという考えではなく、使用者側の事情でもあることも理解しておかなければいけません。しかし、やはり怠けていると思われると良くありません。

 「掃除でもしていてくれ」「片付けでもしておいてくれ」といっても、あからさまに怠けている態度を見せるわけにはいきません。がむしゃらに働くことを求められていない場面でも「怠けているように見られてはいけない」のです。

 そこで、飯場の労働者は、大変ではない範囲で「ムダ」な作業をして、怠けていないことを印象付ける必要があります。「やらなくていい」と言われたとしても、土を平らにならしたり、転がっている石を拾ってよけたり、「気が利く」ところを見せておく必要があります。逆説的な言い方になりますが、「気が利く」ところを見せるには「ムダ」なことをやる必要があります。「やって当たり前」「やらないといけないこと」だけをやっていてもアピールにはなりません。

 「言われたことをやっていればいい」、「働きすぎてはいけない」、「怠けているように見られてはいけない」の三つは、相互に矛盾しているように見えるかもしれません。しかし、これらは別々に理解していてもダメで、それぞれを場面に応じてうまく使い分けること、演じ分けられることが、飯場の労働者として「分かっている」ということなのです。

飯場労働者の行動様式

 「飯場労働の心得」を見た上で、飯場労働者の行動様式についても確認し直しておこうと思います。ここでの飯場労働者の行動様式とは、前回触れた「初心者へのフォロー」と「有能さへの志向」のことです。

 飯場の労働者は誰しも、この二つのことを大切にしています。あまり仕事を知らない初心者を見かけると「誰にでも初めてはあった」といって、親切に教えてくれる人がいます。初心者は、先輩労働者にフォローしてもらいながら、仕事を覚え、スムーズに飯場労働には適応していくことができます。

 このような面倒見の良さは、労働者自身の働きがいにかかわっています。前回も述べたように、飯場の労働者にとっては、実際の仕事ぶりで評価されることに意味が置かれています。ふだん偉そうなことを言っているゼネコンの社員であっても、実際に仕事をやらせてみたら手際が悪いということがあります。仕事をスムーズに進めるためには、難しい資格を持っているとか、責任者の立場にあるとかいったことは関係なく、ちょっとした工夫を思いついたり、機転が利くかどうかが重要になってきます。つまり、現場の仕事をしているなかで、手元の労働者の方が活躍できる場面は少なくないのです。

 また、仕事をスムーズに進めるためには、一人ひとりの労働者の能力や体力の差を考慮する必要があります。うまく仕事を進めるためには、初心者のフォローもうまくする必要があります。有能さへの志向は、初心者へのフォローを下支えするものになっており、飯場労働者の行動様式は、それそのものが新たに入ってくる労働者にその行動様式を身につけさせ、伝え続けていくような「文化」になっているのです。

労働者同士のすれ違い

 飯場の労働者は、このような行動様式を持っていて、仲間同士で助け合うし、基本的にはよく働く人たちだと言えます。しかし、総体としてはこのような気持ちのいい労働者同士が、働くなかで、すれ違ってしまうことがあります。

 ここには、労働者同士の立場の違いが関係しています。飯場の労働者は、経験の違いはあっても基本的には同じ待遇で働いています。しかし、本人が一つの飯場に居続けたいと思っているかどうかで、微妙に立場が違ってきます。

固定層と流動層

 飯場の労働者のタイプは、大きく分けて固定層と流動層があります。固定層とは、一つの飯場にずっといたいと思っている人たちで、流動層とは、その飯場にいるのはたまたま仕事があるからで、お金が貯まったらいずれは出て行こうと思っている人たちです。

 固定層の中にも、細かく見ていくと微妙な立場の違いがあります。固定層の人たちは、長く一つの飯場にいるので、取引先の会社の人たちとも顔なじみで、ある程度の信頼関係もできています。固定層の人たちは、言ってみればその飯場の主力となる人たちで、仕事が少ない時期でも優先的に仕事を回してもらうことができます。ただし、優先的に仕事を回してもらえる固定層のポジションは限られているので、飯場への長年の貢献度に応じて、仕事を回してもらいやすい人とそうでない人の差が出てしまいます。あまり仕事を回してもらえない、固定層の中でも相対的に日の浅い人たちは、あまりに仕事が少なければ別の飯場を探さなければいけないかもしれません。

 流動層の人たちも、細かく見ていくと微妙な違いがあります。一日働くだけでお金のもらえる〈現金〉仕事があれば、本当は飯場に入らずに生活していきたいと人たちは、とにかく飯場にいるのは最短にしておきたいと考えます。なので、流動層のなかでも、特に入れ替わりの激しい層があります。それに対し、ずっとその飯場にいるつもりはないけれど、仕事がある間はしばらくいてもいいと考えて、〈契約〉を何回か更新するタイプの人たちもいます。

 人夫出し飯場は、仕事の量に応じて労働者の人数を調整しなければならないので、固定層と流動層という二つの立場、二つの考え方があるのは、都合のいいことだと言えます。

固定層と流動層のすれ違い

 固定層も流動層も、仕事においている価値は変わらないのですが、どうしてもその立場の違いが働き方に影響してしまう場面があります。

 すでに述べたように、固定層はその飯場の付き合いのある会社の人たちと信頼関係ができています。そのため、現場で誰かリーダー役が求められる場合には、固定層が任せられることになります。また、固定層でなくても、現場で労働者を使う人たちにとっては、何度も一緒に仕事をしている人の方がいろいろ頼みやすいので、流動層であっても、長いこと飯場にいる人ほど、リーダー役を任される可能性が高くなります。何度も同じ現場に来てくれている人の方が、現場の状況もよくわかっており、説明の手間が省けるということもあるのでしょう。しかし、この場合でも、流動層と固定層の両方がいれば、固定層の方が優先的にリーダー役を任せられることになります。

リーダー役の苦労

 リーダー役を任せられるということは、取引先の会社の人に認められているということでもあるので、悪い気はしません。しかし、リーダー役を務めるとなると、いろいろと苦労もあります。

 流動層の最たるものは、〈現金〉でその日だけやってくる人たちです。その日だけ働きに来ているからと言って、いい加減な働き方をするわけではありません。この人たちもやはり「有能さへの志向」は持っています。しかし、何せ現場についての予備知識がないので、リーダー役になれば、やって欲しいことや、現場での注意事項などを伝えなければいけません。仕事が忙しい時期になると、特に労働者の入れ替わりは激しくなるので、固定層は「だんだんいうこと聞かんやつばかりになってくるわ」などと、こぼすようになります。

労働者の間の実力差

 難しいのは、労働者の間の実力差は、その飯場の滞在期間とはまた別であるという点です。20年、30年のベテランだという人も、その飯場で働くのは初めてだという人も当たり前にいることになります。それに対し、私のように飯場の仕事は研究のために数ヶ月経験しているだけという人間でも、その飯場には一ヶ月くらいいるというだけで、リーダー役を任されることが起きてきます。そうなると、実力的にははるかに上位の人に対して、仕事の指示を出さなければいけないことも起こります。

独断専行をとめられない

 有能さへの志向を持つ飯場の労働者は、みんなまじめによく働くし、気が利くところを見せて、現場をうまく回すことに一役買いたいと思っています。この「現場をうまく回すことに一役買いたい」という考えが曲者です。

 私のようなほとんど初心者と変わらないような人間がリーダーになることもあるのですから、その下で働く先輩労働者は、特に悪気もなく「ここはこうすればいい」「こうしないとあかん」と思って、自分の意見を言ってきます。そのような提案がありがたいことも多々あります。こちらから何も言わなくても、自発的に考え、行動してくれる人と一緒に働けると、とても助かります。

 しかし、そういう人が「気が利きすぎて」勝手なことをやってしまう場合があります。確かに、単純に作業の効率だけを考えると、そっちを優先してやった方がいいだろうということでも、その日の作業ノルマや優先しなければならない作業があれば、後回しにしなければならないのが実際です。リーダー役の人間は、その日の作業の注意事項としてそのような指示を受けています。しかし、それ以外の人たちはそのような事情を知るはずもないので、一般的な現場労働のセオリーで勝手に仕事を進めてしまうことがあります。そのような時には、リーダー役の人間は怒られてしまいます。

 勝手なことをやってしまう人たちも悪気があるわけではないことはわかるのですが、そのような独断専行は迷惑だし、止めることもできないので、固定層は流動層のことを「面倒くさい」「忌々しい」と感じてしまうことがあります。

今回の課題

課題10

 助け合いの精神があっても、大勢の人間が一緒に物事を進めようとすると、さまざまな問題が起こってきます。今回は、大勢で何かをやらなければならない時に他人に対して感じたもどかしい経験を思い出して書いて下さい。そのような経験に思い当たらないという人は、今日の授業で紹介した飯場で働く労働者の事例について、あなたの感想を書いて送って下さい。

 件名に「学籍番号 氏名 課題9」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。

土屋トカチ監督「フツーの仕事がしたい」2008年公開

 今日は、土屋トカチ監督の「フツーの仕事がしたい」というドキュメンタリーを紹介します。この作品では、皆倉さんという、セメントを運送するトラックの運転手をしている労働者が起こした労働争議を中心として展開します。

セメントを運ぶ仕事

 冒頭では、労働争議が終わって、安心して働ける職場を取り戻した皆倉さんの仕事風景から始まります。助手席から映したトラックを運転する姿、セメント工場でトラックにセメントを移しかえる作業風景などをみていると、なるほどこんな仕事があるのかとまず新鮮に感じます。私自身が飯場で働いている時にも、セメントを元にして作られたコンクリートを使って建物を作っていく仕事をしました。作品中でも触れられているように、建設業はセメントがなければ成り立たない産業であり、現代社会はセメントなしでは成り立ないのだということにも気づかされます。

悪化する労働環境

 皆倉さんがセメントを運ぶトラックの運転手として働いているあいだに、労働条件がどんどん悪くなります。そもそも、彼の給料は「オール歩合制」と言われるもので、運んだセメントの量で給料が決まるというものでした。たくさん運ばなければお金にならないので、労働時間は必然的に長くなるし、本来の積載量以上を運ぼうとするので、事故を起こして亡くなる人も出るようになっていました。

 「オール歩合制」で、運んだセメント量あたりでもらえるお金の額はどんどん下がっていきます。皆倉さんが働いていた会社では、運転手がトラックの整備費を負担しなければならない「償却制」という仕組みを取り入れられると言いだします。さすがにそんな条件では働けないと、皆倉さんは以前、とあることをきっかけに知った労働組合に加入して、会社に抗議することを決めます。

会社の酷い対応

 皆倉さんが労働組合に入ったことを知った会社は、まず彼を脅して労働組合を辞めさせようとします。さらに、皆倉さんや労働組合の人たちとやり合うために、暴力的な社員を新たに雇い入れます。その社員たちは、皆倉さんのお母さんのお葬式の場にも押しかけて嫌がらせをしてくる始末でした。

 皆倉さんが働いている会社に抗議しても、まったく聞き入れる様子もないので、労働組合は、この酷い会社の対応を改めさせるように、元請けの会社にも抗議をしにいきます。労働者の労働条件が悪くなり、危険な状況で働かせられていることを訴えたのですが、元請けの会社も相手にしようとしません。

さまざまな闘い

 この問題の背景には、セメント業界全体のなれあいの構造があります。そこで、労働組合は過積載の問題を告発するために、独自の調査を行います。そして、セメントを製造して売っている大元の会社にこの問題を訴えにいきました。最初はやはり話を聞こうとしなかった製造会社も、労働組合の粘り強い抗議活動によって、最後にはセメント輸送会社で働く人びとの労働条件の改善について、働きかけることを約束します。

 その結果、ようやく元請けの会社も態度を変え、皆倉さんが働いていた会社も対応を改めざるをえなくなり、まともな労働環境が保障されるようになりました。

「普通」とは何か

 この作品のなかで、何度かタイトルにもある「フツーの仕事」という言葉が出てきます。冒頭で、皆倉さんは「自分にはフツーの仕事はできない」と言います。ここでの「フツーの仕事」とは、デスクワークをするサラリーマンをイメージしているようでした。自分のしているような仕事は「フツーの仕事」ではないが、「自分にはこの仕事しかできない」というような言葉も後半には出てきます。

 大変な労働争議を続ける中で、皆倉さんの口から「フツーの仕事がしたい、運転手として」という言葉がもれます。周りも歩合制で仕事をしているから、これが「フツーではない」ことが分からないまま働いていたと言います。ここで言われている「フツーの仕事」というのは、「労働者の権利が守られている仕事」というような意味で使われているようです。

 「フツーの仕事」とは何でしょうか。おかしな状況の中でも、外から見ると普通にしているように見えたり、外の人に対しては普通を装ったりして、何も問題がないかのように人は見せかけようとします。実際は問題があったとしても、問題がないことにした方が楽だし、解決できるかどうか分からない問題なら、表面化しない方がいいと思ってしまいます。「普通」とは「問題がない状態」を指しているにすぎません。また、それは「問題が見えていない状態」にすぎないのかもしれません。皆倉さんが「普通」という言葉を使う時に、その意味や対象にゆらぎが見られるように、「普通」という言葉についても、私たちは疑ってみる必要があるのかもしれません。

寄せ場の労働者の助け合い

仕事探し

 前回の課題では、実際に自分が働いてもいい、働いてみたいと思えるような仕事を、インターネットの求人サイトを使って探してもらいました。「大学を辞めてでも働かなければならなくなったとして」という仮定をしたつもりだったのですが、もう一つ意図が伝わっていなかったようで、単にアルバイトを探してしまったという人の方が多かったように思います。

 アルバイトとして探す場合は、時給の高いところや、自分がすでに経験のあるような職場を選ぶパターンが多くなりました。いわゆる「就職する」という意味で探している場合でも、やはり収入面はしっかりみたうえで、自分の適正であるとか、未経験者でも対象であること、将来の昇進、昇級の可能性などが確認されていました。

「残業なし」の会社

 ある人が選んでくれた会社のメリットとして「残業なし」であること、そして「固定残業手当」があることを挙げてくれていました。また、週5日勤務ではあるものの、最低6時間から何時間も働くかは自分で決められるといいます。また、土曜、祝日などが休みになっているなど、「好条件」であると書いてくれていました。
 私もそれらしき会社を検索して見てみました。本当に同じ会社かどうかわかりませんが、確かに「残業なし」や「固定残業手当」といった文言が見られます。しかし、求人広告をよく読んでみても、一体何の仕事なのかよくわかりませんでした。どうやらインターネットの通信販売にかかわっている会社のようですが、具体的に何を扱っているのかわかりません。

 「固定残業手当」というのは、「残業をしてもしなくても、決まった時間残業した」とみなして支払われるお金です。「固定残業手当」が毎月7時間分、残業が1時間1,500円だとすれば、残業がなかった場合でも、10,500円は支払われるということです。ただし、残業がある場合は、7時間まで働かねばなりません。
 これは「残業なし」という条件と矛盾するように思われますが、「残業にならないように時間内に仕事を済ませてくれた方がいい」と会社側が考えて、モチベーションを高めるための仕掛けとして付けていると考えれば、おかしくはありません。しかし、「残業なし」と書くのは少し嘘があるように思われます。

その他おかしな点

 細かいところを見ていくと、いろいろおかしなところがあります。社員、パート・アルバイト両方に向けた求人で、それぞれの給与と時給が書かれており、「固定残業手当」がつくのは社員のみであるような記載になっています。ところが、アルバイトスタッフの「給与例」を見ると「固定残業手当」らしきものが含まれています。また、この「給与例」で計算された額は社員の給与として提示されているのと同じ額なのも気になります。そして、よく見ると、週5日、1日8時間労働に加えて、日曜日の午前中も出勤するようになっています。

 また「給与例」には「皆勤手当」というものが含まれています。しかし、「皆勤手当」についてはこの「給与例」にしか出てきませんし、体調も崩さずに週に5日と半日、働き続けることができるでしょうか。1日8時間労働に加えて、残業しなければならない場合もあるかもしれません。

 このように、求人広告を見ていると、細かいところがわからなかったり、書いてあることをどう理解したらよいのか分からないような記載に出くわすことがあります。

寄せ場での求人

あいりん総合センター

 ここからは、前回出てきた大阪の寄せ場釜ヶ崎から飯場の仕事に行く場合を見ていきましょう。寄せ場には「手配師」と呼ばれる人たちがいます。手配師は、建設会社と労働者の間に入って、両者を仲介することで、一人当たりいくらかのマージンをもらっています。

 前回も触れたように、釜ヶ崎は日本最大の寄せ場です。さまざまな歴史的な経緯があって、釜ヶ崎での日雇求人は、ある程度制度化されています。あいりん総合センターという巨大な建物があり、その建物の中で職業紹介が行われています。ここで求人する業者は、西成労働福祉センターというところに登録をして、労働者を募集します。

 労働者を募集する方法としては、窓口紹介と相対紹介があります。窓口紹介というのは、あいりん総合センター3階にある西成労働福祉センターの窓口に張り出される求人票を見て、センターから業者に連絡をとってもらうものです。ここには手配師は入ってきません。

 一方の相対紹介とは、あいりん総合センターの1階で、登録業者と労働者が直接話をして、まとまれば仕事に行くというものです。ここでは手配師があいだに入ってきます。大勢人を集めたり、仕事ができる労働者を集めようと思ったら、手配師の力を借りた方が早いという事情もあるのでしょう。ただし、このようなやり方は実際には違法だし、相対紹介は西成労働福祉センター以外でやれば、違法になります。ゆえに、西成労働福祉センターに登録していない業者がセンター1階以外で釜ヶ崎で路上求人を行えば、これは「闇求人」ということになります。

 「センターの1階」と言いましたが、実際には屋根付きの吹き抜けのようなスペースの周りに業者の車が停められ、大きな柱で支えられた高い天井の下を歩き回って、その日の仕事を探すのが釜ヶ崎での職業紹介です。
 ただし、このような風景が見られたのも2019年の3月末までのことで、現在は建て替えのためにあいりん総合センターは封鎖されており、仮移転先の西成労働福祉センターでは、相対紹介は行われず、すべて窓口紹介になっています。釜ヶ崎の街は大きな変化の真っ只中にあり、そういった事情については、また別の回で触れたいと思います。

初めて寄せ場から仕事に行く

 この授業でお話しするのは、元のあいりん総合センターが閉鎖される以前のことであることをお断りしておきます。

 「わしらがホームレスをしている理由は飯場に入ってみないとわからない」と言った西成公園の知り合いは、早朝のセンターに行くことを私に勧めました。「仕事に行きたければ、朝5時にセンターに行けばいい。若ければ仕事はある」というのです。

 これはあまりに大雑把なアドバイスに思えます。しかし、実際、釜ヶ崎から日雇の仕事に行く場合、これ以上のアドバイスは必要ありませんでした。もちろん、作業服を着て行った方がいいとは思いますが、たとえ働ける格好をしていなかったとしても、人手が足りなければ普段着で歩いている若者でも声をかけられます。

 ただし、大雑把なアドバイスのようで、重要な情報が含まれています。「朝5時に」という部分です。釜ヶ崎はJR環状線新今宮駅の真ん前にあります。センターの建物を新今宮駅から眺めることもできます。しかし、駅前にあったとしても朝5時では、まだ始発の電車が動き始める時間帯なので、釜ヶ崎の近くに住んでいなければ、自転車で行くか、徒歩で行くか、さもなければ前の日から釜ヶ崎にある安いホテル(ドヤ)に泊まっておく必要があります。

 普通の生活をしていると、朝5時にある場所に行くということはなかなかありません。「朝5時に行け」と言われているのに、私は最初、5時に少し遅れて釜ヶ崎に到着していました。最初のうちはこれで失敗して、仕事に行けなかったことがあります。

 「朝5時に行け」というのは、「朝5時までにはセンターにいろ」ということなので、実際には5時より前、4時半から5時までのあいだに到着しておかなければなりません。このことを理解してからは、私が仕事に行きたいときは、4時半には到着するようにしました。4時半ではいくらなんでも早すぎるのではないかと思っていましたが、建物の角を曲がってセンターの姿が見えるや否や、暗がりから「兄ちゃん、仕事あるで」と手配師から声をかけられ、半ば強引に会社の車に乗ることを勧められました。こういった時間の感覚は暗黙のルールとしてきっちりと共有されています。

助けてくれる先輩労働者たち

 初めて〈現金〉の仕事に行ったときは、5時15分くらいに到着していたので、仕事に行くことができませんでした。しかし、センターで立っていると、30代くらいの見知らぬ男性から声をかけられました。
「(業者の)車少ないな」「俺も広島から出てきて、(大阪では)初めて仕事行くんや」「仕事見つかったら一緒に行こうや」

 釜ヶ崎では初めて仕事に行くということでしたが、彼はすでに寄せ場で仕事を探す流儀を心得ている先輩労働者でした。昨日知り合ったという手配師に声をかけて、「明日来てくれたら、明日は二人分仕事紹介するわ」と、渡りをつけてくれました。

 私が本当に初めて仕事に行くまったくの素人であることを知ると、彼は驚いていました。「一緒に行こう」と、誘った相手が足手まといになりかねない初心者と知って、嫌がられるかと思いましたが、「わからないことがあったら、俺が助けてやるから。なるべく同じ場所で働けるようにしよう」と言ってくれました。

 初めて飯場に入る時には、見知らぬ労働者が助けてくれました。朝5時に行かなければいけないと〈現金〉で学んだにもかかわらず、〈契約〉で初めて飯場に入ろうという時、私は6時にセンターに到着したため、手配師にまったく相手にされませんでした。

 あきらめてその日は帰ろうとしているところ、「仕事見つかったんか?」と笑いながら声をかけてくる人たちがいました。彼らは「自分、そんな格好やったらあかん」とあれこれ口出しをして、最後には「しゃあない、わしらが一緒に仕事探してやるわ」と言って、実際に入る飯場を見つけてくれました。

 彼らは「西成は情が廃れたというけど、そんなことは無い。仕事見つけたからといって、なんかくれとか、なんかしろというんじゃない。わしにも初めてはあったから助けてやるんや」と言っていました。

 このように、寄せ場の労働者のあいだには、何もわからないやつが困っていたら助けてやろうという気持ちがあります。寄せ場に仕事を探しにくる人の多くは、建設労働の経験などないまま、「西成に行けばなんとかなる」と望みをかけてやってくる人です。誰もが、初めは不安を抱えながらやってきて、先輩労働者に助けられた思い出を持っています。そのような経験と思いが連綿と受け継がれているのです。

初心者へのフォロー

 初心者を助けてくれるのは、寄せ場で仕事を探すときだけではありません。先ほどの、広島から出てきたという労働者のように「わからないことは俺が助けてやる」といって、気配りしてくれます。また、仕事の進め方や、道具や造作物の名前などを休憩時間に親切に教えてくれます。

有能さへの志向

 このような親切さは、彼ら自身の仕事へのこだわりと関係しています。彼らは、仕事をうまくやってのけることに価値を置いています。基本的には日雇労働者である彼らは、毎日働く会社や現場が変わります。どれだけ働いても、一緒に働いた他の人との給料が変わるということもありません。その分、現場で活躍すること、仕事をうまくやれる有能な人間であることを示して評価されることに意味を見いだします。これを、ここでは有能さへの志向と呼んでおきましょう。

 ある人が「有能である」ということの中には、一緒に働く仲間とうまく協力関係を作れるということや、仕事がわからない人間、体力的に劣る人間がいても、うまくフォローできることも含まれています。つまり、初心者へのフォローと有能さへの志向はつながっていて、飯場で働く労働者のこのようなこだわりが助け合いを支え、助け合いは新しく加わった人間に働き方を教えるだけではなく、「最初はみんなわからないんだから、助けてやらないといけない」という考えをも伝えていくのです。

今日の課題

 今日の課題9は、このような助け合いについて考えてみて下さい。これまで経験してきた部活動や、アルバイトの経験でも構いません。経験豊かな人が、経験の浅い人に親切に何かを教えてくた実例について、あなたの経験を書いて下さい。あるいは、あなた自身が後輩に教えてあげたという事例でも構いません。そして、そのような配慮がなぜ行われたのかということについても考えみてください。そのような経験に思い当たらないという人は、今日の授業で紹介した飯場で働く労働者の事例について、あなたの感想を書いて送って下さい。

 件名に「学籍番号 氏名 課題9」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。