「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

佐藤郁哉『フィールドワーク 増訂版——書を持って街へ出よう』新曜社

 授業と合わせて本の紹介などもしていこうと思います。今回は、最初に申し上げた「フィールドワーク」という言葉に関連して、フィールドワークの入門書を紹介します。

 フィールドワークという言葉は、実際にはいろんな使われ方をされます。ちょっと現地を訪れて社会見学のように案内してもらうことをフィールドワークという場合もありますが、このような軽い使われ方は私はちょっと抵抗があります。インタビュー調査をフィールドワークと呼ぶのも、まちがいではないけど、それがフィールドワークのすべてだと思われると嫌だなと感じてしまいます。

 私がそんなふうに感じてしまうのは、私が学んだフィールドワークが、基本的には「参与観察」と呼ばれるものだったからだと思います。参与観察とは、フィールドワーカー自身がフィールドに住みつき、フィールドの人たちと同じような生活を送りながら調査を進める方法です。ふだん自分が生活しているのとは異なる世界に出かけ、そこで暮らす人たちの当たり前の生活と同じ目線でものごとを理解していくやり方が私は好きなのです。

 そう言われても、ではその参与観察というのはどうやって行うのかと言われると、説明しにくいところがあります。インタビュー調査では、相手が語ってくれる言葉があるので、それをメモしたり、録音したりといった具体的なノウハウがあります。私たちのふだんの生活では行わないような調査の技術があるのです。

 ところが参与観察の場合、「そこに暮らす人たちの当たり前の生活と同じ目線で見る」わけですから、インタビュー調査で想定されるような「ふだんの生活で行わないような調査の技術」みたいなものを、具体的に紹介することができません。初心者は「とりあえずフィールドに行って3ヶ月暮らしてこい」と尻を叩かれて、試行錯誤しながら自分のやり方をつかんでいかねばなりません。

 今では、参与観察も含めていろんなフィールドワークの入門書が出ていますが、私がフィールドワークを始めた頃に参照できる本はあまり多くありませんでした。あまり多くなかった中の一冊がこの本です。

 学問や研究というのは基本的には孤独なもので、フィールドでは独りでさまざまな課題と向き合わねばなりません。次回以降でお話しするかと思いますが、私の西成公園での初めてのフィールドワークも苦労の連続で、自分はフィールドワークに向いていない人間なのではないかと落ち込みました。

 ところが、世界的に有名で、立派な本を書いているフィールドワーカーたちも、フィールドでは実は泣き言を漏らしていることが、この本で紹介されています。

フランスの人類学クロード・レヴィ=ストロース

 調査地で話し相手になってくれる人が、どこかに行ってしまったために過ごす無為な時間。……調査研究の対象に到達するために、これほどの努力と無駄な出費が必要だということは、私たちの仕事のむしろ短所と看做すべきで、何ら取り立てて称賛すべきことではない。……確かに、六ヶ月の旅と、窮乏と、むかむかするようなやりきれなさとの犠牲を払って、まだ記録されていない神話一つ、あるいは氏族名の完全なリスト一つを採録することもある(採録そのものは数日、時には数時間で終わる)。

イギリスの人類学者ブラニスラフ・マリノフスキーの日記

 三日(火)もあまり調子が良くなかった。朝、村へ行ったが、誰もいなかったのでかっとして家に帰ってしまった。ノートを見直そうと思ったのだが、実際は新聞を読んだだけだった。翌日(四日)、誰かインフォーマントになる人物はいないだろうかと思って、イグアに村まで調べに行かせた。またしても誰もいなかった。仕方なく家にいた。

 「こんなことをやってても何もわからないかもしれない」——日々そんな不安を抱えながら、フィールドワーカーは調査に取り組んでいます。新たにフィールドワークに挑戦しようという人に一つだけアドバイスができるとしたら、私は日記をつけることをお勧めすると思います。目には見えないもの、つかもうとしてもすり抜けていくものに形を与えるためには、自分自身の気づきを手がかりにする必要があります。

 「自分には何も気づけない」と思っても、日記をつけておけば、「このことについては何の気づきも得られなかった」という気づきが得られます。また、その時は何も気づけないと思っていても、後から読み返すと、その時にはすでに気づきが芽生えていたことがわかることもあります。無駄だと思える時間も、積み重ねていけば、価値を持ってくるのです。記録をつけることは気づくこと、理解することの第一歩となります。