「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

釜ヶ崎の成り立ち

場所について考える

お気に入りの場所、特に用事がなくても立ち寄ってしまう場所

 前回の授業課題では、自分がこれまで生きてきた中で、お気に入りの場所、あるいは「特に用事がなくても立ち寄ってしまってしまう」ような場所について、ふりかえって考えてもらいました。

 自分が高校生のころのことを思い出すと、部活動の帰りに毎日友だちと一緒に、帰り道の本屋何軒かをはしごしていました。毎日寄ったからといって何か得られるわけではないし、その店の本棚ももはや知り尽くしているのですが、それでも何か面白いものに出会えるチャンスを感じていたのでしょう。大学生の頃にも、近所の古本屋数軒を一人ではしごしていたことを思い出します。

 休みの人に友だちと待ち合わせて自転車で出かける時も、いつも定番になっている本屋やCDショップなどのコースがあり、最後は立体駐車場のベンチで長話をしていました。お金がない高校生が友だちと無駄なおしゃべりをして過ごすためには、そのような道筋が必要だったのでしょう。

 みなさんが書いてくれた中にも本屋さんがありました。出かけた時にゲームセンターに立ち寄るとか、風景のいい公園など、さまざまな場所をあげてくれていました。中には自分の家のリビング、自分の部屋や出窓、ベランダなどをあげてくれた人もいました。

仕事場を探して

 今年の緊急事態宣言が出ている時期には、マクドナルドのようなチェーン店を含め、喫茶店や飲食店が丸ごと閉鎖されていました。ふだん自宅で作業していても気乗りがしないので、ノートパソコンやタブレットスマホを持って喫茶スペースに行くことがよくあります。しかし、緊急事態宣言中はそれができませんでした。

 気分も落ち込んでしまうので、出来るだけ日光を浴びた方がいいと思って、外で作業できる場所を探しました。折りたたみ式のアウトドアチェアを購入し、この授業の教材の準備は近所の川の緑地帯になっている歩道沿いで行いました。いつもそこに行くのも気分が乗らないので、同じように仕事ができそうな場所を探しました。そうは言っても、遊具があるような普通の公園だと親子連れや子どもたちがいて落ち着きません。あちこち原付で走り回って見つけたのは小さな史跡公園でした。大きな木が立っていて、石碑のある石畳の公園が交差点沿いにポツンとあり、車は通るものの人通りは少ないので、そこで仕事をしたこともあります。どちらも悪くない居場所でしたが、トイレがないことが難点でした。

 この二ヶ所は結構気に入っているのですが、緊急事態宣言が終わってしばらくすると、再開したチェーン店に少しずつ足を運ぶようになりました。また最近は雨続きで、そうでない日も結構暑くなってきたこともあり、折りたたみ式の椅子を持って仕事をしに行くということはなくなっています。

 もう一ヶ所、コロナ禍になって長時間過ごすようになった場所として、自宅の物干し台のベランダがあります。とにかく日光を浴びたいので、そこに折りたたみ式のイスを持って出て仕事をしたり、寝袋と枕を出して寝転がったりするようになりました。空が開けていて開放感があるので、やる気が出ない時にはまずベランダに出てみることにしています。気が張って休めない時にもベランダだと落ち着けるので、晴れた夜はベランダで寝ることもあります。

遠隔授業、テレワークなんてできるのか

 コロナ禍が広がる中で、テレワークが推奨されるようになり、大学の授業は軒並み遠隔化されました。みなさんも遠隔授業を嫌というほど味わってきたことと思います。最初は使ったこともなかったzoomを使って、私も毎週何回も授業をしています。自分が作成した動画をYouTubeにアップするなどということも、このような機会がなければ、なかなかやらなかったと思います。何度か「zoom飲み会」も試しました。離れて住む友だちとのおしゃべりはそれなりに楽しく、夜遅くまで飲んで酔っ払っても、そのまま自宅で横になれることの快適さに、こういうのも悪くないなと思いました。

 しかし、こうしたことができるのは、おそらく遠隔でない状態ですでに出来上がった関係や、経験の蓄積があるためだと思います。初めて顔を合わせる同士の懇親会といってzoomで飲み会をするというのは、少し無理があるように思います。遠隔授業にしても「授業とはこういうものだ」という理解なり、経験がすでにあるところで成立しているもので、対面授業の中には遠隔に置き換えられるものがあるか、どちらがどちらより優れているとか、単純に考えてしまうのは危険だと思います。

遠隔につながれない人びと

 もちろん、すでに遠隔授業にうんざりしているという人もいるでしょうし、「zoom疲れ」という言葉もあります。しかし、そもそも遠隔につながれない人たちも存在します。コロナ禍においても休むわけには行かない人たちのことを「エッセンシャルワーカー」と呼んでいるのを耳にすることがあります。スポーツの大会が中止になったり、観光産業が大きな打撃を受けていることも報じられています。

 私たちの社会は「人を集める」ことでお金を儲ける社会に作り替えられています。観光産業とはまさにそういうものだし、スターバックスタリーズのようなコーヒーチェーン、フードコートのような場所は、店舗のスペースと道路や通路などの公共空間とが曖昧になっていて、独特のくつろぎの空間を演出しています。しかし、見方を変えれば、そのような場所は、くつろぎの空間をお金儲けのために作り出しているもので、さらにお金儲けのためのくつろぎ空間を広げようとするものでもあります。

 最近では、民間企業が公共図書館の管理を委託される事例が広がっています。民間企業がかかわることで、図書館がきれいになり、おしゃれでくつろげる場所に作り替えられ、経費も浮くとなれば、こうした動きを歓迎する人がいるのもわからなくはありません。しかし、もともと図書館は「くつろぎにくる場所」ではないし、くつろぎの空間として人が大勢集まることは、図書館としては必ずしもプラスではありません。

 大阪市大阪城公園天王寺公園(通称てんしば)も、民間企業が管理に関わることで、「多くの人で、にぎわうようになった」とマスメディアで肯定的に取り上げられています。しかし、公園は誰もが利用できて、自由にくつろげる場所です。「にぎわう」といえば、いいことのように思われますが、お祭り会場ではないのだし、大勢の人がひしめき合っていては、とてもくつろげません。公園に人があふれかえるのは、人口に比して公園が足りていないことを意味します。

 それでも「人を集める」ことがいいこととして推奨され、それに合わせてさまざまな便宜がはかられてきました。それが丸ごとひっくり返ったのが今回のコロナ禍だったのです。新型コロナウイルス感染症の感染拡大を避けるため、集まらないこと、遠隔で済ませられることは遠隔で済ますことが推奨され、「新しい生活様式が必要だ」などとも政府は言っています。

 しかし、そもそもこのような事態に対応できない人たちもいます。野宿生活を送る人びとは、「にぎわいの空間」に作り変えられる街中や公園から追い出されて、居場所を奪われてきました。その結果、野宿者が過ごせる場所はますます限られてきており、同じ場所に集まらざるをえなくなります。集まることに自粛が求められるようになったため、炊き出しや弁当の配布などが中止になっています。ネットカフェで生活している人たちの多くが、ネットカフェが営業中止になり、野宿生活を強いられています。このような困難に見舞われた人びとが行き着く場所のひとつが釜ヶ崎になっています。

釜ヶ崎の成り立ち

生活に困った人が集まるところ

 「西成に行けば何とかなる」と言われる釜ヶ崎は、日雇労働者の街でした。仕事や住む家を無くしても、釜ヶ崎に行けば日雇の仕事に行って、その日の分の稼ぎを得て、すぐ近くにある安いホテルに泊まることができます。そして、次の日も日雇の仕事に行ったり、飯場に入ったりして、何とか食いつなぐ「その日暮らし」を生きることができます。

 釜ヶ崎のはじまりは戦前にさかのぼります。釜ヶ崎はJR環状線新今宮駅の外側に位置します。19世紀末頃、この辺りは大阪市の外れでした。ここからもう少し北に行ったところに、現在の日本橋があります。日本橋の辺りは、やはり江戸時代の大坂の外れのような場所で、ここには名護町という木賃宿街がありました。いつの時代にも、他の土地から流れ着いた人たちが暮らせる場所が都市の中にあったことがわかります。

 1903年に第5回内国勧業博覧会という催しが大阪で開催されます。この会場となったのが、現在の新世界の辺りです。新世界の通天閣は、実はこの博覧会の名残りとして現在の姿で存在し続けているものです。博覧会の当時は通天閣から天王寺動物園を越えた茶臼山まで、ロープウェーが渡されており、遊園地のようなにぎやかな場所として開発されていました。

名護町から追い出される人たち

 2025年の大阪万博が予定されているのは、夢洲という埋立地で、やはり大阪市の外れになります。博覧会が行われる場所が、なぜ都市の外れになるかというと、大きな催しをするためにはそれだけの土地が必要になるからでしょう。広い土地を確保できて、都市の中心部からもアクセスしやすい場所となると、その都市の周辺部にしか開発可能な土地が残されていないことになります。1903年内国勧業博覧会の時は、日本橋や新世界の辺りがその条件を満たす場所だったのです。しかし、すでに述べたように、そこには木賃宿で暮らす貧しい生活を送る人びとが住んでいました。名護町に住んでいた人たちは、博覧会の開発に追われて、さらに外れへと移り住むことになります。そこが現在の釜ヶ崎に含まれる場所だったのです。

 当時の地図に「釜ヶ崎」という地名が記載されていることが確認されていますが、現在は地名として「釜ヶ崎」という名前はありません。しかし、貧しい人たちが集まって暮らす街を指す言葉として、「釜ヶ崎」の名前は現在まで語り継がれているのです。

戦後の釜ヶ崎

 第二次世界大戦中、日本の主要都市の多くが空襲を受け、焼け野原になりました。当時、日本一の工業都市であった大阪が空襲の標的にされないはずがなく、釜ヶ崎も焼土と化しました。しかし、戦後も釜ヶ崎簡易宿所街として再生していくことになります。

 1960年の朝日新聞ルポルタージュでは、「大阪のどん底釜ヶ崎”」と紹介されています。このルポルタージュでは、4,000人もの日雇労働者が仕事を求めて集まってきている早朝の寄せ場の風景が描かれています。また、南海線の高架下などには、手作りの小屋がひしめき合う「密集バラック地帯」があったと書かれています。「犬小屋を大きくした」あるいは「牛小屋を半分にした」ような粗末で小さな小屋が300軒もあり、2,000人もの人びとが暮らしていたといいます。一つの小屋あたり、平均4、5人、最高7人で暮らしていたとあります。

 当時の釜ヶ崎では、子連れの家族が暮らしていたこともわかります。めんこやチャンバラ遊びをして駆けまわる子どもたちの姿が見られたようです。その父親は日雇労働者で、母親は旅館の掃除婦といったふうに、両親の共働きでした。日払いアパートには誰もおらず、昼食もろくに用意してもらえないようなこともあるなかで、子どもたちはたくましく育っていたようです。

 日雇労働者バラックが集まる場所に隣接して、売買春が行われる遊郭があります。現在でも「飛田新地」の名前で知られています。貧しい人たちが仕事を求め、生活する街と、売買春を取り仕切るヤクザが幅を利かせる街とが隣り合って存在していました。日雇労働の紹介にはヤクザが関係していることも少なくなく、ふたつの街は、様相は異なるものの、どこかでつながり合っていました。

 この頃の釜ヶ崎の問題といえば、街の衛生環境のことであったり、満足に学校にもいけずに、ほったらかしにされている子どもたちに関することでした。

労働者の街として作り変えられる釜ヶ崎

 このような街だった釜ヶ崎が大きく作り変えられるきっかけとなったのが、1961年6月1日に起こった暴動でした。現在でも言えることですが、日雇労働は、仕事があるときには大事にされる一方で、仕事がない時にはほったらかしにされる条件の悪い仕事です。お金のある時もあれば、食べるのにも困るような時もあります。本人たちは貧しい生活を自力で生き抜こうと努力していても、周りからは怠け者であるかのように差別的に見られることがあります。何か事件があると、何もしていなくても警察からは怪しまれ、ふだんから嫌な思いをしています。

 この暴動のきっかけとなったのは、交通事故にあった一人の労働者に対する警察の取り扱いでした。釜ヶ崎の近くの交差点付近で起こった交通事故で、被害者にはまだ息があったにもかかわらず、現地を訪れた警察は救急車を呼びませんでした。これを見て、ふだんから警察から差別され、嫌な思いをしている労働者たちの怒りに火がつきました。交通事故の被害者で、本人には何の落ち度もないにもかかわらず、命の価値を選別されるのを目の当たりにしたのですから、腹が立たないわけがありません。警察に対する怒りはふくれあがり、何日間にもおよぶ大規模な暴動となりました。

 このような暴動は、労働者が怒りを表す方法として繰り返されることになりました。もともとやり場のない怒りを抱えていた人たちの思いがあふれ出したものが暴動だったのです。しかし、この暴動によって、釜ヶ崎は「身元の怪しい日雇労働者が集まる危険な街」と見られるようになりました。

 「日雇労働者を一ヶ所に集めているからこんなことが起こるのだ」というわけで、最初のうちは釜ヶ崎を管理する方向で施策が取られました。無秩序だった日雇労働の紹介業務にかかわるために、西成労働福祉センターという機関が作られました。生活面では、家族を対象とした入所施設が作られ、地域外の公営住宅への移住が進められました。あからさまな治安対策としては、西成警察署と隣接する浪速警察署の警察官が増員され、釜ヶ崎の中に監視カメラが設置されるようになりました(釜ヶ崎は、日本で初めて監視カメラが設置された街だと言われています)。

 このように、最初は暴動を警戒して、労働者を監視し、管理することに力が注がれていたことがわかります。ところが、1960年代後半になると、風向きが変わります。1970年の大阪万博を控えて、大阪では建設労働の需要が増していました。建物や道路を造らないといけないにもかかわらず、働き手が圧倒的に不足していたのです。このような状況下では「危険である」ことなど二の次になり、「釜ヶ崎の労働者を活用すべきだ」と考えられるようになりました。そして、積極的に釜ヶ崎に労働者が集められるようになりました。

 労働者を集めるためには、集まる労働者のための受け皿が必要になります。そこで、単身の日雇労働者が滞在できる簡易宿所が次々と造られるようになりました。また、簡易宿所の組合には、日雇労働者の生活管理が期待されました。大規模な簡易宿所への建て替えが進むと、それ以外の住居が減っていきます。かつては子連れの家族や女性が住む場所もあったはずですが、徐々に減っていき、単身の男性日雇労働者の街へと形を変えていくことになります。つまり、現在までの釜ヶ崎の街の姿は、政策的に作られたものだったのです。

バブル経済の崩壊と高齢化が進む労働者

 1980年代は釜ヶ崎がもっとも活気にあふれた時期でした。賃金も高く、仕事はいくらでもあったので、当時を知るある人は「お金がなくなるまで働かなかった。明日働けばいいと思っていたから」とふりかえっていました。しかし、バブル経済の崩壊によって、1990年代はじめに釜ヶ崎の仕事も激減しました。そして、野宿生活をする人たちが増えていきました。景気の良い時期にも、野宿生活をする人がいなかったわけではありません。ふつうの社会保険に加入できるわけでもなく、家族もいない日雇労働者は、怪我をしたり、病気になったりして働けなくなれば、すぐに生活に困ってしまいます。また、歳を取れば、仕事があっても、連れて行ってもらえなくなったり、体力的に毎日働くことも難しくなっていきます。そういう意味では、潜在的なホームレス状態にあります。それが大きく顕在化したのが1990年代だったと言えるでしょう。 

釜ヶ崎の街のさらなる変化

 仕事が減り、野宿する人が増えると、日雇労働者向けに商売をしていた簡易宿所も困るようになります。そこで、簡易宿所のなかには、生活保護を受ける人向けの「福祉アパート」に業態を変えるところが出てきました。単に生活保護の受給者を入居させるだけでなく、日常の生活のサポートを提供するサポーティブハウスも作られていきました。釜ヶ崎の中にはもともと生活保護を受ける人のための救護施設や、その時にお金がなくても、お金のある時に無利子で払ってくれればいいという病院など、生活に困った人たちの相談にのってくれる施設が集まっています。

 また、海外や国内のバックパッカー向けに商売を始める簡易宿所も現れました。もともとは釜ヶ崎のドヤであったことを知らずに、就職活動で大阪に訪れる大学生が利用したり、外国人のバックパッカーが値段に惹かれて利用したりといったふうに、これまでは足を踏み入れることがなかったような人たちが訪れるきっかけとなるような道筋も作られています。

 現在の釜ヶ崎は大きな変化の真っ只中にあります。その変化を決定づけたのが、2012年にはじまり、現在も続いている「西成特区構想」です。次回は、この西成特区構想に関連した釜ヶ崎の現在を見たいと思います。

今回の課題と最終レポート課題

課題13

 今回の課題13では、遠隔授業で大変だったことについて教えて下さい。課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題13」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。今回の授業の感想を書いてくれても構いません。

最終レポート課題

 平常の課題とは別に最終レポート課題があります。これまで、新型コロナウイルス感染症の感染拡大の中での、自分自身の生活をふりかえるレポートを何度か提出してもらいました。最終レポートでは、これまでの自分が提出したレポートを読み直したうえで、この数ヶ月についての現在の考えと、今後の生活について思っていることを800字から1,000字以内にまとめて下さい。

 最終レポート課題は、来週の授業日にIBU.netの課題提出から提出してもらうので、それまでに準備しておいて下さい。