「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

怠けの役割

怠け者を発見した経験

自分で自分を怠け者だと思う

 前回は、あなたが誰かを怠け者だと思った経験、あるいはあなた自身が怠け者扱いされた経験、または誰かが誰かを怠け者扱いしているのを見かけた経験などについてふりかえって書いてもらいました。

 読んでいてわりと多かったのが、自分で自分のことを怠け者だと思ってしまうというケースでした。テスト勉強をしなければならないとわかっているのに、ついつい後回しにしてしまった時に、自分自身について怠け者だと感じるというわけです。これは、逆のパターンもあります。自分はきちんと計画を立てて勉強をしている、するつもりでいるのに、たまたま勉強をしていない姿を見かけた親から、怠けていると叱られるといった経験です。

 自分で自分を怠け者だと感じる時には、自分のなかに「こうあるべき」という規範、信じているルールのようなものがあるのでしょう。そのルールを守れなかった時に「怠けた」と後ろめたく感じてしまいます。しかし、やろうと思っていても、どうしてもやる気が出ないという思いは誰にでも理解できることだと思います。苦手なことだったり、苦痛に感じたりすることをやるには、エネルギーが必要です。そのエネルギーを捻り出せないといったこともあるでしょう。

誰かが目標を設定している

 集団で何かをするときに経験したもどかしい思いについて書いてもらった時にもあったように、文化祭の準備や掃除などを怠ける人の話も多く出てきました。学校行事の場合、その学校に通うメンバーである以上、かかわらざるをえません。きちんと完了までこぎつけなければ、最終的には指導教員からの制裁が待っています。なので、真面目な人ほど、嫌でも計画的に取り組むことになります。

 誰もが同じだけのエネルギーを持っているとも限らないし、目標が一律に設定されてしまうと、それに着いて来れない人も出てきます。実際には着いて来れない事情はさまざまであるにもかかわらず、その事情を知り得ない場合、あるいは、知る余裕がない場合、私たちは怠け者を発見してしまいます。

「普通」の線引き

使用者と労働者の関係

 今日もまた、飯場労働者を題材に、怠けについて考えてみましょう。前回は飯場労働者同士のあいだで「怠け者」が作り出されるメカニズムを見てきました。今回は、飯場に依頼し、現場で労働者に指示を出す使用者と飯場労働者との関係に注目したいと思います。

 飯場労働者同士と違って、使用者と飯場労働者とのあいだには、はっきりした力関係があります。使用者の方が圧倒的に強い立場にあります。使用者が飯場に「あいつは仕事ができないからうちには寄こすな」とクレームを入れれば、その現場にはもう行けなくなるかもしれません。

 もし自分がミスをしたり、約束違反をしたのであれば、仕方がないかもしれません。しかし、労働者の側からも、働きやすい会社と働きにくい会社があります。

働きやすい会社と働きにくい会社

 ある飯場に入って働いた時、一緒に働いていた先輩労働者が「ここの会社の仕事にはあまり来たくないんや」といっていました。彼によれば「この会社はダラダラ仕事をする」「決まり事がない」ため、働きにくいというのです。また「人夫出しから人間が来ていることを知らない。そういう意識がない」「口答えしたらあかん」とも言っていました。

 「人夫出し飯場から人間が来ていることを知らない」とはどういうことでしょうか。これまで見てきたように、人夫出し飯場とは「仕事が多い時にだけ働く人間が欲しい」という特殊な要求に応えるための場所です。飯場で働く人間には、固定層と流動層があり、いつ仕事の契約が終わるかはまちまちで、人によっては1日しかその飯場で働かないこともあります。そのような特殊な事情のもとで、飯場労働者のあいだで、いわれなき「怠け者」が作り出されることも見てきました。

 そう言われてみると、この会社の社員から「休みの日は何しとるんや。もうすぐ給料日やろ?」と聞かれたことがあります。多くの会社は月末が給料日であることが多いし、月末でなくても社員の給料日は同じ日に設定されているのが一般的だと思います。しかし、飯場では「給料日」は人によって違います。こんな聞き方をしてくるところをみると、この会社が人夫出し飯場のことを知らずにいることがわかります。

 この会社は、人夫出し飯場がそのような場所であると知らず、いってみれば「普通の会社」だと思っているのです。6月24日のドキュメンタリーの紹介でも触れたように「普通」とは実は中身のない言葉です。「普通」とは「問題がない状態」を指しているにすぎず、また、それは「問題が見えていない状態」にすぎないのかもしれません。私たちが働いている飯場のことを「普通の会社」だと思っているこの会社は、人夫出し飯場独特の問題が「見えていない」会社であり、その事情をわかってくれない、事情を話そうとしても「口答えしている」で済まされてしまう会社だということです。

事情をわかってくれている会社

 このことは、人夫出し飯場の事情をわかってくれている会社と対照すると理解しやすいと思います。別の会社で、何人かと一緒に働いている時に、ある人が「ここの会社で、最初◯◯建設さんと呼ばれてドキッとした」と言っていました。◯◯建設というのは私たちが入っている飯場なので、「◯◯建設さん」と呼ばれることには何の不思議もないように思われます。ところが、彼がいうには、現場によっては人夫出し飯場から人が来ていることを隠さなければならない場合があるというのです。すると、この飯場で長く働いている人が「ここの現場は大丈夫だ」と教えてくれました。

 給料日にかんしても、この会社はきちんとわかっていることがうかがえました。同じ会社で働いているある日、現場に行く車の中で、その会社の社長が「明日の日曜日、誰か出てくれないか?」と言ってきました。誰も日曜日には働きたくないので、シーンとした空気になりました。その沈黙を破って、「◯◯建設さんと言われてドキッとした」と言っていた人が「1回満期にしたんですよ」とよくわからないことを言いました。

 この発言の意図をあとで聞いてみると、10日契約を終わらせたばかりで、これからまた10日働き続けなければならないので、あまり無理はしたくないのだと言いたかったのだとわかりました。契約が終わる1日前、2日前くらいであれば、もう1日がんばって、早く飯場を出るという選択もありかもしれません。しかし、お金が入る契約完了日までまだまだあるとなれば、1日無理をしてあとの数日しんどい思いをするよりは、普通のペースで働きたいと考えてもおかしくありません。

 飯場で働く労働者のことをよく知らない人に対してこんなことを言っても意味がありません。彼がこんな言い方をしたのは、この会社が自分たちの事情をわかってくれている会社であると知っていたからです。そういう意味で、この会社は飯場労働者にとって働きやすい会社だと言えるでしょう。

「普通」の線引きが変えられる時

 この会社は、飯場で働く労働者の事情をわかってくれている働きやすい会社でした。しかし、このような理解のある会社であっても、釜ヶ崎に対しては偏見を持っていて、しかもそのことを無自覚であることが透けて見えるような瞬間がありました。

 またある日の現場の休憩時間のことです。現場監督に言われて、私はみんなの缶コーヒーを買いに行きました。休憩室を出たくらいに「若いなあ」と話しはじめる声がしました。おそらく私のことを話題にしているのであろうことがわかりました。一緒に働いていた労働者の1人には、私が大学院生であることを話していたので、この雰囲気だと彼はそのことを教えてしまうだろうなと思いました。

 缶コーヒーを買って戻ってくると、案の定、私が大学院に通っていて、学業の合間に飯場に働きに来ていることが伝わっていました。「なら、バイトか」という問いかけに最初は話を合わせておこうかとも思いましたが、冗談まじりに「大学院というなら、研究でもしようとしてるのかと思った」といわれたので、実は飯場を研究したくて仕事をしているのだと打ち明けました。「それならわしらは(実験用の)モルモットやないか」と現場監督は笑い、一緒に働いていた飯場の労働者も「わしのこと、論文に載るかも知れんなあ」と面白がっていました。

 ひとしきり盛り上がった後、真顔になった現場監督は「土工は単に金儲けのためやったらやらん方がええぞ」といい、この現場の常連で飯場の固定層の労働者も「土工に染まってしまうからな」と話を合わせていました。「わしのこと、論文に載るかもしれんなあ」と言っていた、私と同じ流動層の労働者は「わしらのこと(を研究する)なんて簡単やろ、酒飲んでバクチ打っとるというだけで全部やろ」とおどけていいます。

 すると、現場監督が「西成(釜ヶ崎)は人の住むところじゃないな」といい出しました。固定層の労働者もうなずいて同意して、「明け方、自販機の前で酒を買って飲んでいたら殴られて金を盗られたことがある」と自分の体験談を話しました。

 このやりとりは何を意味しているのでしょうか。この会社は人夫出し飯場で働く労働者の事情をわかってくれている会社でした。もう一方の会社が、人夫出し飯場という独特の場所について、知ろうともしていないのに対して、その事情を知ったうえで「普通に接してくれる会社」ということになります。ところが、現場監督と固定層の労働者のやりとりで示されているのは、「釜ヶ崎は普通の場所じゃない」ということです。

 このやりとりが、飯場での短期の契約が終われば、また釜ヶ崎に帰るであろう流動層の労働者の前で行われたことも重要です。当事者の目の前で何のためらいもなくこのようなやりとりが行われるということは、これが問題だという意識が彼らに無いことを示しています。また、固定層の労働者も元は釜ヶ崎からやってきている人が多いはずだし、釜ヶ崎で強盗被害にあったということは、彼も釜ヶ崎で暮らしていたということです。しかし、現在の彼は釜ヶ崎からは距離をとり、「飯場を含む普通の世界」を生きているわけです。

仕事の中で怠け者扱いされる人たち

排除されながらも受け入れられる

 ここまでで見てきたように、人夫出し飯場がその存在を認められていない場合があると思えば、認められている場合もあり、しかし、その場合でも、釜ヶ崎については否定的に語られるというように「何が普通か」という線引きは、人と人とのやりとりの中で引き直されていることがわかります。しかし、どの場合も変わらないのは、彼らが労働力である限りは受け入れられているということです。彼らは、ある部分では排除されながらも、ある部分では受け入れられています。このように、彼らの立場があやふやで、ふりまわされがちなのは、彼らにいうことを聞かせるための圧力がかけられているためだと言えるでしょう。

「楽することばっかり考えるな」

 今度は、仕事の中での使用者と労働者のやりとりを見ていきましょう。

 また別のある会社で、その会社の社員や下請け会社の社員の下で、ふたつのチームに分かれて、同じ現場で仕事をしていました。その日の仕事は、現場では法面(のりめん)と呼ばれる土手の斜面の下に、U字溝のブロックを設置していく作業でした。その作業に必要な、砂を入れた袋やセメントを資材置き場まで取りに行かねばなりません。私が社員の人の手元をやり、もう一人がセメント袋を取りに行ったのですが、なかなか戻ってきません。社員の人に言われて様子を見に行くと、法面の途中でセメントを落としてしまったらしく、袋が破れて中身が散らばっている前で呆然としていました。

 砂を入れた土嚢袋を運んでこいと指示された時には、指示をした社員の手元まで持ってくればいいものを、何とか下まで運んできたら力尽きて、その場に下ろしてしまっていました。自分が落としたセメント袋の処理もできず、気も利かない彼に対し、社員の人は「あのおっさん、楽することばっかり考えるな」と腹を立てていました。

 午後になると、彼はもう当てにされなくなっており、捨てたヘドロをスコップで平らにしておけと、厄介払いされていました。

 帰りの車の中で待っていると、社員の人たちが道具の片付けをはじめたので、私を含めた他のメンバーは手伝いに出たのですが、彼だけは疲れていたのか、単に気づかなかったのか、車の中に座り続けていたため、後でこっぴどく叱られていました。その姿を見て別の労働者は「あれは危ないな。どっか悪いんや」と同情するように言っていました。

 一緒に働いていて、私自身も正直もどかしい思いをしたのは事実です。しかし、私に向かって仕事の段取りについて話しかけてくることもあり、積極的に仕事にかかわろうという気を持っていることがうかがえました。また、別の労働者が言っているように何か健康上の問題を抱えていたのかもしれません。もしそうなら、彼でもできるような仕事を考えて、少しでも貢献してもらえるような工夫が必要なのではないでしょうか。厄介払いをしておいて、あとで激怒するというのもちょっと勝手な気がします。

「10のうち、11も12もやれとはいわん」

 健康上の問題がある人のケースはちょっと極端な例に感じられたかもしれません。別のケースについても見てみましょう。

 この日、私は行ける現場がないということで、休みにさせられました。仕事がないのは仕方がないと部屋でゆっくりしていると、しばらくして飯場の社員に声をかけられ、「今から仕事に行ってくれるか?」と頼まれました。ある現場で、一人の労働者が現場監督とトラブルを起こして帰ってしまったので、その埋め合わせとして行ってくれないかというのです。

 現場に到着すると、広い敷地でユンボとトラックが作業をしていました。トラックが砕石という小さな石を運んできて、ユンボで砕石をまいていきます。それを、飯場の労働者がスコップで平らにならしていくという作業をやっていました。スコップで平らにならすといっても、これは結構大変な作業です。オートレベルという機械を使って、ポイントポイントで高さを確認しなければならないし、ちゃんと平らになっているかどうかを確かめるには慣れが必要です。

 最初、私がこれをやるように言われて、少しためらっていると「やったことないもんやったらあかんわ、代わってもらえ」と言われ、他の労働者に代わってもらうことになりました。代わってくれた労働者も「わし遅いけど」と自信なさげでしたが、「ゆっくりでええわ」と言って引き受けていました。

 ほどなくして休憩になり、休憩所で他の労働者と3人で休んでいると、ユンボに乗っていた現場監督が入ってきました。そして、次のように語り出しました。

「難しいことは要求しとらんのやで。10のうち11も12もやれとは言わん。10のうち8か9やってくれたらええんや。5じゃ困るけどな。2人呼ばんといかんやろ」

 私は、なるほどと適当に相づちをうちながら聞いていましたが、他の2人は聞き流しているようでした。これは、一人途中で帰ってしまったことについて、悪いのは自分ではない、自分はそんなに無茶な要求はしていないのだという現場監督の言い分だったのでしょう。実際帰ってしまった人がどう思っていたのかはわかりません。しかし、この作業は結構大変なものだと思います。次から次に砕石をまいていくユンボに対し、1人でそれを均していくのは、作業そのものの大変さもあるし、急かされるような圧力も感じるはずです。「ゆっくりでええから」という言葉が出てくるのも、一人逃げられたあとで、労働者に気を遣っているからこそでしょう。

 「10のうち8か9やってくれればいい」と言われると、甘めに条件を設定してくれているように感じられますが、そもそもその「10段階」の設定はそう言っている本人によるものです。100あるものを10に分けたとしても10段階だし、120あるものを10に分けたとしても10段階です。100あるものの9段階目は90であったとしても、120あるものの9段階目は102なのだから、実際は10要求されているのと変わらないかもしれません。

 「これくらいできて当たり前」という標準は、使う側が恣意的に決めているだけで、必ずしも働く側の事情を考慮したものとは言えません。

どんな仕事をどれくらいやるのか

 どんな仕事をどれくらいやるのかを決めるのは人を使う側の人間です。したがって、使用者の方が労働者より優位な立場にあると言えます。

 どんな仕事をどれくらいやるのかを決められるということは、裏返せば、それらのことを決める責任があるということでもあるはずです。ところが、使用者の側は、それを「決めない」ままに労働者を働かせることもできてしまいます。

 「ダラダラ仕事をする」「決まり事がない」と言われていた会社がありました。「人夫出しから人間が来ていることを知らない」と言われていたこの会社は、いろんな面で働きにくいところがありました。

 その日の仕事がはじまる時間になっても、会社からの指示がありません。先に外に出て待っていた方がいいかと思っていたら、一緒に来ていた他の労働者が「まだ車の中で待っていたらいいよ」というので、しばらく時間を潰していました。こういったことはこの会社ではよくあることなのでしょう。

 この現場は芦屋にある豪邸の建築現場でした。山の斜面を切り出して、テニスコートも付いた広い敷地を持っています。少ししてから、下の方で斜面を掘り返していたユンボのところまで出てくるように、社員の人たちに呼ばれました。「住宅地だから機械を動かせるのは8時半からだけど、仕事ははじまってるんだから、出てきておいてもらわないと困る」と小言を言われました。

 そうして呼ばれてからも、ユンボの運転手は相変わらず地面を掘り返しており、特に指示を出されるわけでもありません。仕方がないので、ユンボがとりこぼして転がってくる大きめの石をスコップで拾って投げ返していました。以前、同じようなシチュエーションで他の人がやっていたことなので真似をしてやったものの、あまり意味のある作業とは思えないので身が入りません。ほかにも、ユンボが停止した時に、キャタピラでできたでこぼこを踏みならして平らにしたりしていましたが、再びユンボが通ればまた元どおりになるわけだから、こんなことをしていてもかえって怒られるのではないかという気持ちもありました。

 このような「やっつけ仕事」をしていると、ユンボの運転手と打ち合わせをしていた現場監督が「平らにならすんなら、道具使ってちゃんとやってくれるか?」と口を出してきました。言われた通りにやっていると、まだそのやり方が気に入らなかったようで、私から道具を奪って「見本」を見せて、「こんなの平らにならそういう気があればできることちゃう?」と嫌味を言われました。

 このやりとりがあってから、私は「仕事のできないやつ」というレッテルを貼られてしまいました。普通に仕事をしていても「その辺の女の子の方が力あるんちゃうか?」「先輩のやることよう見て仕事覚えろよ」と茶々を入れられました。その日の仕事は、バカにされるほどの仕事ではなかったのですが、いったん目をつけられてしまうと、何をやってもバカにされてしまいます。

「怠けているように見られてはならない」

 ここで、何回か前に扱った飯場労働の心得を思い出して下さい。飯場労働の心得のなかに、「怠けているように見られてはならない」というものがありました。実際には、何をどうするべきかという指示が出ていない場合、そのタイミングでは何もすることがないし、余計なことはしなくていいような場合があります。しかし、こういう時に何もしないでいると「怠けている」と思われてしまう危険があります。
 労働者はよく、言われもしないのに掃除を始めることがあります。敷きつめられた鉄板の上に散らばった砂をスコップでていねいに取り除いていくというのも定番作業です。この作業をしながら、先輩労働者が得意げに「こうやっとったら仕事しとるように見えるやろ?」と笑いかけてきたこともあります。以前にも述べたように、掃除は他にやってもらいたいことがない時にやらせる作業でもあります。造りかけの広大な建造物の中で掃除を指示された時、物陰に隠れてサボりながら「こうしとる時間が一番長いな」などとうそぶいていたこともあります。ここまで来ると、労働者の方も確信犯的に怠けています。

怠けるのも仕事のうち

 「怠けているように見られてはいけない」ということは、実質的には、彼らは怠けているのです。しかし、彼らがそうしなければならないのは、指示を出すべき人間が指示を出していないせいです。指示を出すべき人間が自分の責任を果たしていないのだとすれば、怠けているのは指示を出すべき人間の方かもしれません。にもかかわらず、出すべき指示を出していない人間は、指示がなくて困っている労働者に対して、逆に「怠けるな!」と怒ってくるというおかしなことが起こります。
 そういう意味では、労働者にとっては「怠けるのも仕事のうち」だし、彼らが怠けていることの責任は彼らにはないのです。
 怠けるということを突きつめていくと、いろんな問題が見えてきます。人はうまくいかないことがあると、怠け者を発見するのかもしれません。時には自分で自分を怠け者だと思って落ち込んだりもします。しかし、そんなふうに自分を貶めてみるより、やるべきことにさっさと取りかかった方がよいでしょう。
 他人のことを「怠けている!」と怒っている人も、実は何かの犠牲者なのかもしれません。怒りのエネルギーをムダ遣いするより、自分自身が余裕を持って楽しく生きられるような道を探した方がいいかもしれません。「怠けてはいけない」と自分で自分を縛ってしまっている部分もあるはずです。

今回の課題

課題12

 次回は、再び釜ヶ崎について考えてみようと思います。今回の授業のなかで、釜ヶ崎は「人の住むところじゃない」などと言われていました。しかし、実際の釜ヶ崎の労働者は「お互いさま」という考え方を持っています。

 今回は、自分がこれまで生きてきた中で、お気に入りの場所、あるいは「特に用事がなくても立ち寄ってしまってしまう」ような場所について、ふりかえって書いて下さい。

 課題は、件名に「学籍番号 氏名 課題12」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。