「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

土屋トカチ監督「フツーの仕事がしたい」2008年公開

 今日は、土屋トカチ監督の「フツーの仕事がしたい」というドキュメンタリーを紹介します。この作品では、皆倉さんという、セメントを運送するトラックの運転手をしている労働者が起こした労働争議を中心として展開します。

セメントを運ぶ仕事

 冒頭では、労働争議が終わって、安心して働ける職場を取り戻した皆倉さんの仕事風景から始まります。助手席から映したトラックを運転する姿、セメント工場でトラックにセメントを移しかえる作業風景などをみていると、なるほどこんな仕事があるのかとまず新鮮に感じます。私自身が飯場で働いている時にも、セメントを元にして作られたコンクリートを使って建物を作っていく仕事をしました。作品中でも触れられているように、建設業はセメントがなければ成り立たない産業であり、現代社会はセメントなしでは成り立ないのだということにも気づかされます。

悪化する労働環境

 皆倉さんがセメントを運ぶトラックの運転手として働いているあいだに、労働条件がどんどん悪くなります。そもそも、彼の給料は「オール歩合制」と言われるもので、運んだセメントの量で給料が決まるというものでした。たくさん運ばなければお金にならないので、労働時間は必然的に長くなるし、本来の積載量以上を運ぼうとするので、事故を起こして亡くなる人も出るようになっていました。

 「オール歩合制」で、運んだセメント量あたりでもらえるお金の額はどんどん下がっていきます。皆倉さんが働いていた会社では、運転手がトラックの整備費を負担しなければならない「償却制」という仕組みを取り入れられると言いだします。さすがにそんな条件では働けないと、皆倉さんは以前、とあることをきっかけに知った労働組合に加入して、会社に抗議することを決めます。

会社の酷い対応

 皆倉さんが労働組合に入ったことを知った会社は、まず彼を脅して労働組合を辞めさせようとします。さらに、皆倉さんや労働組合の人たちとやり合うために、暴力的な社員を新たに雇い入れます。その社員たちは、皆倉さんのお母さんのお葬式の場にも押しかけて嫌がらせをしてくる始末でした。

 皆倉さんが働いている会社に抗議しても、まったく聞き入れる様子もないので、労働組合は、この酷い会社の対応を改めさせるように、元請けの会社にも抗議をしにいきます。労働者の労働条件が悪くなり、危険な状況で働かせられていることを訴えたのですが、元請けの会社も相手にしようとしません。

さまざまな闘い

 この問題の背景には、セメント業界全体のなれあいの構造があります。そこで、労働組合は過積載の問題を告発するために、独自の調査を行います。そして、セメントを製造して売っている大元の会社にこの問題を訴えにいきました。最初はやはり話を聞こうとしなかった製造会社も、労働組合の粘り強い抗議活動によって、最後にはセメント輸送会社で働く人びとの労働条件の改善について、働きかけることを約束します。

 その結果、ようやく元請けの会社も態度を変え、皆倉さんが働いていた会社も対応を改めざるをえなくなり、まともな労働環境が保障されるようになりました。

「普通」とは何か

 この作品のなかで、何度かタイトルにもある「フツーの仕事」という言葉が出てきます。冒頭で、皆倉さんは「自分にはフツーの仕事はできない」と言います。ここでの「フツーの仕事」とは、デスクワークをするサラリーマンをイメージしているようでした。自分のしているような仕事は「フツーの仕事」ではないが、「自分にはこの仕事しかできない」というような言葉も後半には出てきます。

 大変な労働争議を続ける中で、皆倉さんの口から「フツーの仕事がしたい、運転手として」という言葉がもれます。周りも歩合制で仕事をしているから、これが「フツーではない」ことが分からないまま働いていたと言います。ここで言われている「フツーの仕事」というのは、「労働者の権利が守られている仕事」というような意味で使われているようです。

 「フツーの仕事」とは何でしょうか。おかしな状況の中でも、外から見ると普通にしているように見えたり、外の人に対しては普通を装ったりして、何も問題がないかのように人は見せかけようとします。実際は問題があったとしても、問題がないことにした方が楽だし、解決できるかどうか分からない問題なら、表面化しない方がいいと思ってしまいます。「普通」とは「問題がない状態」を指しているにすぎません。また、それは「問題が見えていない状態」にすぎないのかもしれません。皆倉さんが「普通」という言葉を使う時に、その意味や対象にゆらぎが見られるように、「普通」という言葉についても、私たちは疑ってみる必要があるのかもしれません。