「現代社会と人権」渡辺拓也

四天王寺大学で開講されている「現代社会と人権」のオンライン授業用の教材です。無断転載や受講者以外への不要な拡散は控えて下さい。

コミュニケーション能力とは何だろう

コミュニケーション能力が高い人とは?

 よく「コミュニケーション能力が評価される」と言われます。物怖じせずに知らない人に話しかけたり、何を言われても即座に対応したりといったふうに、「コミュニケーション能力の高い人」はいるように思えます。「コミュニケーション能力」がその人間の価値をはかる指標の一つのようになっています。

逆にコミュニケーションが低い人とは?

 しかし、それは本当に「コミュニケーション能力」と言われるようなものなのでしょうか。「コミュニケーション能力が高い人」とは反対に「コミュニケーション能力の低い人」がいたとします。「コミュニケーション能力の低い人」は他人とのコミュニケーションがうまくとれません。しかし、そもそもコミュニケーションとは相手があってはじめて成立するものです。「コミュニケーション能力の低い人」とコミュニケーションが取れない人もまた「コミュニケーション能力が低い」のではないでしょうか。

非対称的な関係

 「円滑なコミュニケーション」は相互に高め合って可能になるものであり、個人の能力の指標とするのはおかしな話です。そうであるにもかかわらず、この言葉が「評価する人とされる人」という非対称的な関係の中で用いられているところがポイントです。「コミュニケーション能力」という言葉を使っていながら、ここで評価されているのは「何を求められているのかを察する能力」であり、その能力を評価者に対して披露できるかどうかという「態度」ないし「相性」を見られていることになります。

 「何を求められているのか察する能力」とは「やったことのないことでも、状況を見て、何をすべきかを把握する能力」でもあります。これは「コミュニケーション能力」ではなく「洞察力」や「観察力」といったものです。「洞察力」や「観察力」は、知識や経験を積むことで高めることができます。「コミュニケーション能力」という得体の知れないものを磨こうとするより、さまざまな知識や経験を積むことを大切にした方が良いのではないでしょうか。

働くことについて考える

働くことについて思っていること

 前回の課題では「働くことについて思っていること」を書いてもらいました。これもたくさん書いてくれた人が多く、みなさん気になることやふだんから考えていることが多いのだなと感じました。

 まだ働いた経験もないのに、将来の仕事について考えるというのは結構大変なことだと思います。自分にどんな仕事が向いているのか、どんな仕事をしたいのか、自分が望むような仕事がどこにあるのか、目的を絞っていくまでの過程でつまずく場合もあるでしょう。また、「これが自分のしたい仕事だ」と思って、希望の会社に入れたとしても、自分が思っていたのとは違ったということもあるかもしれません。

何のために働くのか

 何のために働くのかということについて書いてくれた人もいます。ひとつには「自分のため」ということがあります。自分のためといっても、家賃を払ったり、食べ物や着るものを買ったりといった生活のためには働いてお金を稼がないといけないという現実的な理由もあります。「否応なく働かないと生きていけない」ということのほかに「自分自身の楽しみのために仕事をする」「自分が成長するために仕事をする」といった考えもあります。「とにかくお金を稼いでいい暮らしをしたい」というのも「自分のため」に含まれるでしょう。

 また、「他人のため」ということもあるでしょう。「誰かの役に立つ」「誰かに感謝される」、直接相手は見えなくとも仕事をとおして「社会貢献する」ということもあります。結婚して子どもができれば「家族を養うため」という理由もついてくるでしょう。

働くのは嫌なこと?

 働くのは嫌なことだと感じている意見もありました。たとえば「給料をもらっているのに楽しいことなんてありえないような気がする」と書いてくれた人がいました。これは、自分がお金を払う側の立場で考えてみるとよくわかります。「こっちはお金を払ってるんだから、ちゃんと働け」と思うのは自然なことです。アルバイトをした経験がある人は、相手が嫌な人だったり、無茶な要求であっても、がまんして相手をしなければならなかったという思いをしたことがあるかもしれません。また、お金をもらう以上、面倒くさいとかしんどいという理由で簡単に休むわけにもいきません。

 仕事そのものが肉体的にきついということに加えて、人間関係で嫌な思いをすることもあります。嫌なお客さん、無茶なことをいうお客さんの相手をしなければならないということもあるし、一緒に働く仲間や上司が嫌な人間だと、仕事そのものは好きでも働く事は嫌になってしまいます。

安定した仕事につきたい

 嫌な仕事だったり、あまり楽しくない仕事だったりしても、給料が良い、休みが多い、失業する心配がないといった「安定」を重視してその仕事に耐えるということもありえます。実際、私たちが生きているうちにどんなことが起こるかわかったものではありません。今回の新型コロナウイルスの流行もそうだし、近年は毎年のように多くの自然災害による被害を受ける地域があります。どんなに働きやすい職場、好きな仕事でも、会社が潰れてしまえば元も子もありません。

 「AIに仕事を奪われないような仕事につきたい」と書いてくれた人もたくさんいました。「AIによって10年後には今ある仕事の半分が無くなる」などと言われれば不安にならざるをえません。

 安定していると言われる仕事の筆頭に公務員があります。公務員がなぜ安定しているかというと、公務員の給料は税金から出ているので、不況になっても、公務員の給料を払っている国が潰れてしまうことがなければ、公務員の給料が支払われなかったり、失業したりすることはないからです。

公務員が悪者にされているけど

 日本社会の景気が悪くなってからは、公務員という仕事の人気が高まりましたが、同時にやっかみも強くなっています。「みんな苦労しているのに、公務員ばかり優遇されている」「公務員だけ守られていてずるい」といって叩かれるようになりました。公務員の給与を減らしたり、公務員の数を減らして非正規労働者に置き換えたりして、人気を得ようとする政治家もいます。
 確かに、みんなが大変な思いをしているのに、そのみんなの税金から給料をもらっている人たちが安定した暮らしをしているのはずるい気がします。しかし、ここで、もう一度、なぜ公務員の仕事は安定しているのかを考えてみましょう。
 公務員の仕事の安定を保証しているのは、公務員を雇っているのが国だからでした。だったら、国は公務員以外の人も安定した暮らしができるようにしなければならないのではないでしょうか。ずるいのは公務員の仕事が安定していることではなく、国がきちんと仕事をしていないところにあるのではないでしょうか。そして、国がきちんと仕事をするということは、政治家はもちろん、公務員がきちんと仕事をするということでもあります。

 公務員にきちんと仕事をさせるためには公務員の仕事がまず安定していないといけません。政治家は、すべての人が安定した暮らしができるような仕組みを作らないといけません。その政治家が、公務員を叩いて人気取りをするのは、自分の仕事をきちんとしていない代わりに公務員をいけにえにしているようなものです。

誰にも先のことはわからない

 誰にも先のことはわかりません。どんな仕事が自分に合っているのかを見極めるのは簡単ではありません。また、自分にどんなに適性があったとしても、その仕事の求人がなかったり、大災害や大不況にみまわれて仕事を失ってしまう可能性があります。これらは個人の努力や才能では避けられないことです。

 職場の人間関係が悪ければ、違う職場に移ればいいし、対人関係そのものに苦痛を感じるなら、職種を変えるといった選択肢が考えられます。しかし、転職しようにも、その余裕がなかったり、給与が下がってしまうので、家族のことを考えるとがまんするしかないということもあるかもしれません。

 働くことには「嫌なことでもがまんしなければならない」ことが付きまとってきます。しかし、これは何も働くことに限ったことではありません。どんな楽しいことでも、がまんしなければならない嫌なことはあるのではないでしょうか。

 嫌なことでもやらなければならないと割り切ってやる必要はあるし、しかし、その嫌なことは最小限になるように工夫すべきです。AIによって仕事が無くなるのは、人がやっていたことをAIが代わりにやってくれるようになるからです。それなら、AIのおかげで働かなくて良くなったぶんを、人間の楽しみに使えるようにすべきではないでしょうか。

 みんなが不安を感じずに、安心して暮らせる社会、嫌な思いはできるだけせずに済ませられる社会が実現すれば、雇用の安定だけを見て「公務員がうらやましい」などということはなくなるはずです。公務員になりたくないという人もいるだろうし、公務員ではできない仕事もあるはずです。

どのような社会の仕組みが必要なのか

 新型コロナウイルス感染症の感染拡大により、私たちの生活にさまざな影響が起きて、経済的に困窮する人たちも出ています。「持続化給付金」や「雇用調整助成金」といった事業者向けの助成のほか、個人を対象に家賃を助成する「住居確保給付金」、無利子無担保でお金を借りられる「緊急小口資金」といった制度があります。また、日本で暮らしている人に10万円を無条件で給付する「特別定額給付金」のことはみなさんご存知だと思います。このように、行政は不測の事態が起きた時にも困らずに済むような施策を取ることができます。

 ところが、ホームレスの人たちの多くは、この特別定額給付金を受ける権利がありながら受け取ることができないかもしれません。なぜなら、特別定額給付金の対象となる人は「住民基本台帳に記載されていること」が条件となっており、野宿生活をしていたり、ネットカフェで寝泊りしている人たちは、住民票を置くところがないので、申請することができないからです。

 DV被害にあって避難している人は住民票を元の住所に置いたままであっても、そのことを証明する書類を作成すれば、現住地で受け取ることができます。住民基本台帳は、対象者を補足するための手段であって、助成金を受けられるか否かの資格や条件ではないはずです。

 新型コロナウイルスの感染拡大以前からすでに困っていて、さらに困っているのですから、まちがいなく困っている人たちであるといっていいはずですが、その人たちに給付が行き渡らないようでは、安心して暮らせる社会とは言えません。

 私たち一人ひとりの力は小さなものです。それに対して自然災害や、疫病、社会変動は個人の力を超えたもので、その影響を受けるかどうかには、運の要素もかかわってきます。また、カフカの階段で見たように、一つひとつは乗り越えていけそうかことでも、積み重なるとどうにもならなくなることもあります。前回は、競争に負けたからといって、その人が見捨てられていい理由にはならないことにも触れました。

 私たちは「働く」ということに、知らず知らず縛られているところがあります。「働く」ということで私たちを縛りたい人たちもいます。「嫌なことでもやらなければならないこと」を減らすことはできても、無くすことは難しいと思います。「嫌なこと」でもやりようによっては楽しく感じたり、結果として満足感が得られたりすることもあるでしょう。「働く」ということも、「自由」と同じように、いろんな意味がつめこまれていて、実体がつかみにくくなっています。「働く」ということの意味について、今度は飯場のフィールドワークから理解を深めていきましょう。

どうやって飯場に入るのか

 「わしらがホームレスをやっている理由は飯場に入ってみないとわからない」と言われた私は飯場に入ってみることにしました。

求人広告を利用する場合

 飯場に入るためにはいくつかの方法があります。ひとつには、みなさんがアルバイトを探すときと同じように、アルバイトの求人情報を探すことです。最近では、アルバイト情報誌も無料のものがどこでも手に入るようになりましたし、無料のアルバイト情報誌の多くが、インターネットの求人サイトを持っているので、スマホで気軽に探すことができます。

 インターネット求人サイトでは、職種や労働条件など、希望に合わせた検索ができます。住む家をなくした状態で、住み込みの仕事を探すこともできます。大抵出てくるのは建設業の飯場か、製造業になります。

 スポーツ新聞の求人広告欄で探すこともできます。スポーツ新聞の求人広告の多くは建設業の飯場です。インターネット求人サイトの場合、スペースの制限がないので、その会社のことや労働条件についてくわしく書いてあることが多いのですが、スポーツ新聞の求人広告はほんの小さな囲みしかないので、くわしいことはほとんどわかりません。

路上手配・駅手配

 もうひとつは、路上手配・駅手配と言われる方法です。文字通り、何もない路上や駅の近くで見知らぬ人から声をかけられます。作家の平井正治さんは、この路上手配・駅手配の様子を次のように書いています(平井正治『無縁声声──日本資本主義残酷史』1997年、藤原書店)。

 終電車過ぎて駅におるの見たら、飲んでるわけでもないし、もう帰るところないのやろ、ニイちゃん腹減っとんのかと、まあ飲めやと声かける。それが駅手配。京都の飯場の火事もみなそれで連れて行かれたような連中。

 前回「人夫出し飯場は、住み込みの働き場所を探さざるをえないくらい追いつめられた人たちを狙ってる」という話をしましたが、このように、人夫出し飯場は文字通り困っている人を「狙って」声をかけてくるのです。困っている人が集まりやすいのは駅の周りばかりではありません。

 競艇場からトボトボと日が暮れた道を歩いて帰って来る。そしたら、その競艇場の帰り道に手配師が車持って行って、ちゃんと車の中に缶ビール、ワンカップ、ジュース、弁当、用意して。「ニイちゃんどないしたんや、行くとこないんかい。うちの会社へ来んか。今晩から暖かいところで寝させてやるから、まあまあとにかく元気つけや」と一杯飲ます。もうこの一杯飲んでしもたら帰られん。腹減ってんのやろて弁当出されたら、つい手つけてしまう。「おまえ何か、それで黙って帰るんか」言われたら。そこからヤクザの本性です。

 最初は優しいことを言って親切にして罠を仕かけます。

 「俺べつに、あんたが失業して困ってるやろと思うて、親切に声かけたのに、弁当だけ食うて、はいさよなら、それで通るか、世の中が」。声が強うなってくる。弱みつかまれて、それで飯場へ着いて、翌朝、地下足袋の古いの履かされて、作業服の古、みなくれたと思います。「おい、これ着て行け」、ポーンと放り出す。前に飯場おったんが、帰りしなに捨てていったもんや。ところが、それがみな、勘定日になると、地下足袋、作業服、手袋と、みな引かれます。これも北海道のタコ部屋以来、ずーっといまだにそうです。

 このような業者は、まともに求人広告を出しても応募がないようなところだと考えられます。だからこそ、とりわけ困っているだろう人に狙いをつけ、罠を仕かけて囲い込むのです。罠にはまった方もたまったものではないので、隙を見て逃げ出す人もいます。その繰り返しで無理やり働かせて利益を上げるのですから、ブラック企業の元祖のようなものと言えるかもしれません。

 求人広告で人を募集する業者は、路上手配・駅手配で労働者を集める業者に比べれば、まだマシなのかもしれません。最近では、健康保険や厚生年金といった社会保険に加入できる会社も増えています。しかし、給料は仕事に出た日にだけ支払われる日給月給であることは変わりませんし、飯場の利用料も、仕事の有無にかかわらず天引きされます。これを「飯場の労働条件が改善された」と評価すべきなのか、「不安定な条件でも働かざるをえない人が増えた」と評価すべきなのかは難しいところです。

寄せ場

 もうひとつ、駅手配や路上手配に似たもので、寄せ場での求人があります。寄せ場とは、早朝の路上求人が慣習化した場所のことを言います。駅手配や路上手配は、求人する側が働き手になりそうな人間を狙って声をかけるものですが、働き手の方も「ここに来れば、声をかけてもらえる」「仕事がもらえるかもしれない」となれば、自然と集まってくるようになります。このように、求人側と求職側が相互に出会えるような場所を寄せ場と言います。

 寄せ場は、日本各地に人知れず存在しています。そのなかでも、日本三大寄せ場と言われる有名なものに、東京の山谷、大阪の釜ヶ崎、横浜の寿があります。これらは、寄せ場であると同時に、寄せ場で働く人たちが寝泊りする簡易宿所(ドヤ)が集まっている日雇労働者の街(ドヤ街)でもあります。

 特に、大阪の釜ヶ崎は日本最大の寄せ場であり、日本最大のドヤ街です。1990年代後半に日本全国でホームレスの人たちが急増した時、もっともホームレスの人たちが多かったのは大阪でした。その理由のひとつはこの寄せ場であり、日雇労働者の街である釜ヶ崎の存在が関係しています。大阪市西成区にある釜ヶ崎は、「西成」と呼ばれることもあります。「仕事がなくなっても、西成(釜ヶ崎)に行けばなんとかなる」と言われてきました。一文無しでも、釜ヶ崎にやって来れば、手配師から声をかけられて、日銭を稼いでドヤに泊まることができたからです。

 しかし、釜ヶ崎の仕事が減ったために野宿せざるをえなくなった人がたくさん現れたことが、ホームレス問題の背景にあり、釜ヶ崎の仕事はこの10年、20年でますます減ってきているので、「西成に行けばなんとかなる」とは言いづらくなっています。しかし、いまだにこのような言葉を聞いて、釜ヶ崎にやってくる人は絶えません。

今回の課題

 今回の課題8は、実際に自分が働いてもいい、働いてみたいと思えるような仕事を、インターネットの求人サイトを使って探してみて下さい。ただし、その仕事は、大学卒業後に働いてみたい会社ではなく、今すぐ働かなければならなくなった場合を想定して探すようにして下さい。

 件名に「学籍番号 氏名 課題8」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。メール本文には、選んだのがどんな仕事で、なぜその会社を選んだのか、労働条件などにも言及したうえで、その理由を書いて下さい。また、選ぶのは「ここなら自分も採用される可能性がありそうだ」と思えるようなところにして下さい。

救済課題について

 現在、IBU.netの「課題提出」で、「これまで授業教材に気付いていなかった人のための救済課題」という課題が登録されています。この課題は、課題5まで、授業教材の存在に気付いておらず、まったく課題を出せていない人のために出題する救済措置です。これまでの課題を、とびとびであっても提出している人は取り組む必要はないし、取り組む意味もありません。

出席登録について

 IBU.netのクラスフォーラムにも登録していますが、問い合わせが多いので出席登録について確認しておきます。
 提出してもらった課題は、IBU.netの授業出欠席一覧に登録します。課題の提出の返信は個別にはしません。授業終了後しばらく経ってから、授業出欠席一覧を確認して下さい(提出したのに登録されていない場合は、IBU.netのQ&Aでお知らせください)。

 第1回は4/24、第2回5/1、第3回5/8、第4回5/15、第5回5/22、第6回5/29、第7回6/5、第8回6/12、第9回6/19、第10回6/26、第11回7/3、第12回7/10、第13回7/17、第14回7/31、第15回8/7に対応しています。

 課題1は第1回に、課題2からは第4回以降に登録してあります。授業時間外の特別な課題がある場合、第2回、第3回に登録することになります。課題5は第2回に登録されており、現時点で第3回はどの人も空欄になっています。

 以上です。

緊急事態宣言が解除されて

第二波への警戒

 5月末に新型コロナウイルスの感染拡大に対する緊急事態宣言が解除されて、状況は一変したかのようでもあります。大阪でも、新規の感染者が出ていないとなれば、気をつけようという気持ちの行き場がないし、これまで自粛協力を呼びかけていた大阪府知事は、今度は経済活動を活性化させようとしています
 そんななか、北九州市で新たな感染者が多発し、感染拡大の第二波は起こりうるのだということを思い出させてくれました。

学校の方針

 みなさんのレポートのなかにも、第二波に気をつけて、まだ注意を継続しようという考えが多く示されていました。

 6月に入って、午前と午後での変則的な入れ替え体制ではあるものの、小学校や中学校も再開されました。来週には平常通りの授業形態になるようです。一方で、大阪のほとんどの大学は遠隔授業を継続するようです。四天王寺大学でも、対面授業は必要最小限に抑える方針になっています。

 私個人のことに触れると、今週の月曜日から和歌山市の専門学校に週に一コマの授業が再開されました。和歌山市は大阪より早く感染拡大が落ち着いていましたが、大阪で緊急事態宣言が出ている状況では、通勤するわけにはいきませんでした。他の先生はほとんど和歌山県内に住んでいるはずで、私の担当授業だけ取り残されてしまうのではないかと心配しましたが、緊急事態宣言が全国に拡大されたため、授業再開が6月まで延期されていました。専門学校のパソコン室を使ってもらって遠隔授業をしようかとも考えましたが、学生は学校のパソコンでインターネットは使えないとのことで、これは断念しました。

対面授業をしてみて

 緊急事態宣言が解除されたとは言っても、元どおりになったわけではありません。特に公共交通機関は怖いので、ふだんより早い6時台の電車に乗りました。乗った時点ではそれほど人は乗っていませんでしたが、途中で快速に乗り換えてからは、満員とはいかないまでも、どの車両も座れない人が目立つほどには混むようになり、接触を避けるというわけにはいきませんでした。

 学校についてみると、驚いたことにフェイスシールドを渡されました。フェイスシールドを使う場合はマスクは外しても構わないし、フェイスシールド自体、使わなくても構わないけれど、ということでしたが、学生のみなさんはフェイスシールドを付けることを義務付けられているということだったので、私もフェイスシールドを付けることにしました。

 また、ふだん授業している教室ではなく、ふだん式典や体育の授業をしている多目的ホールで、距離を置いて授業をしているということでした。いつもの教室に慣れきっており、また、対面授業をするのは春休みを挟んでほとんど半年ぶりだったので、緊張している自分に直前で気づきました。

自粛生活の影響

 みなさんのレポートを読んでみると、自粛生活のありようは似たり寄ったりであるようで、それぞれ異なったつらい思いをしている様子がうかがえました。

 アルバイトがなくなってしまった人もあれば、アルバイトはふだん通りという人もあります。遠隔授業のおかげでパソコンやネットワークのことにくわしくなった、タイピングが速くなったという報告も目立ちました。

 自宅の中で同じことの繰り返しで、取り立ててレポートに書けることがないからと、1日の過ごし方の時間割を書いてくれた人もいました。朝、昼、晩と大学の課題の有無を確認し、課題に取り組むという規則正しい生活送っている様子がわかりました。

 寂しさに耐えきれず、しかし、大阪府外にある実家に公共機関を使って帰るわけにもいかず、実家のお母さんに電話したところ、お父さんが自家用車を運転して迎えに来てくれたというエピソードもありました。やはり、まだ当たり前の大学生活を経験できていない一回生のみなさんの気持ちは私たち教員にも想像しきれていない部分があると感じさせられました。

最後のレポートにむけて

 この授業の最後のレポートでは、この自粛生活について書いてもらったこれまでの二つのレポートをふまえた上で、この半年をふりかえってもらうつもりです。みなさんが毎週毎週の課題で大変苦労されている様子もよくわかりました。

 最後のレポートまでは、この授業の課題は、動画(ブログ)をみた上で、自分の意見を提出してもらうものが基本になります。最後のレポートに何を書こうか、心づもりをしておいて下さい。

ホームレスをしている理由

なぜホームレスをしているのか

フィールドワークで出会うこと

 前回の課題では、みなさんそれぞれがやってみたいフィールドワークについて書いてもらいました。この授業で関心を持ってホームレスの人たちや釜ヶ崎について知りたいという人もいれば、アメリカやアジアなどの貧困地域に行ってみたいという人もいました。また、過疎地や農村で暮らしてみたいというものや、自然や動物について調べてみたいというものもありました。その他、高齢者や児童の施設に興味があるという人もいました。

 フィールドワークと観光が異なるのは、嫌な思いをすることや失敗することを否定しないというところにあると思います。あこがれの場所に行って、長く過ごしたり、関わり続けたりするうちに、私たちが普段暮らしていれば当たり前に遭遇するようなトラブルが起こることもあるでしょう。そういったトラブルも、自分で選んで行ったことである以上、自分の力で乗り越えていかねばなりません。

 普段暮らしている時に出くわすトラブルは嫌なものですが、フィールドでのトラブルは、自分に新しいものを教えてくれる贈り物かもしれません。フィールドワークにのぞむときは、弱い自分でも弱いままでちょっと強くなれるのです。

フィールドワークとインタビュー

 さて、西成公園でのフィールドワークを終えた私は、新しいフィールドを探さなければなりませんでした。福岡の大学を卒業して、大学院に進学するために大阪に引っ越してきたとなると、家があるのにわざわざテント村で住み込み調査をするというのも変な話です。住み込み調査でなければ、テント村やあちこちに暮らしているホームレスの人たちを訪問し、インタビュー調査をすることもできます。しかし、私はインタビュー調査がしたいわけではありませんでした。

 インタビュー調査はとても面白いものです。インタビュー調査でなければ知ることのできないこともあります。例えば、その人の過去の経験、この社会の過去の出来事などは、インタビューでお話を聞かせてもらわなければ知ることができません。本やテレビなどで知ることのできることはほんの一部でしかありません。実際にその時代を生きた人の話はとても新鮮で、驚きと発見に満ちたものになるでしょう。

 また、人の心の中に入り込むことができるのもインタビュー調査の面白いところです。私たちは普段暮らしている時にも「この人はこんなふうに感じているんだな」と理解したり、反応を見て心の内を推測したりしています。しかし、他人が心の中で何をどんなふうに感じているのか、考えているのかは、突っ込んで聞いてみなければわからないし、普段の生活ではなかなかそういったチャンスがありません。

 インタビュー調査では、改まった状況で話を聞かせてもらうので、普段聞けないような深い話を聞くことができます。フィールドワークをしているうちでも、誰かの話を深く聞くことは必要になってきます。インタビューをお願いしてお付き合いを続けているうちに、その人を取り巻くより広い事情を理解していったり、その人の人生そのものとのかかわりを持つようになることもあるでしょう。

 しかし、それは結果的にそうなるという話であって、私は、最初から他人の生活や人生の一部を切り取って何かを理解したような気持ちにはとてもなれないように感じていました。「多分こうだろう」という仮説をあらかじめ用意して、その証拠を集めるようなやり方では、結局自分の頭の中で考えたことの範囲を出ることができません。まずは自分の頭の外から出て行って、他人の世界を理解することを通して、結果的に自分が元いた世界のあり方を見直したかったのです。

 今思えば「自分の世界を見直したい」というわりに頭が硬いし、どっちかというと自己中心的なこだわりに囚われているようなところがありました。しかし、人間は常に何かに縛られているし、何に縛られているのかを自覚的に理解するためには、あえて何かに縛られにいくことが必要なのかもしれません。「自由になるためには不自由にならないといけない」とでも言ったらよいでしょうか。

「わしらがホームレスをしている理由」

 2003年3月半ばに大阪に引っ越してきた私は、さっそく西成公園をたずねました。おやじさんは再度生活保護を受けて安定したアパート暮らしをしていましたが、テント村にいたときにできた知り合いに会いにきたのです。

 この時に、自分が書いた卒業論文をその知り合いに渡しました。矛盾する思いから目をそらすかのように帳尻をあわせて書いた文章を渡すのはあまり気が進まないことでしたが、彼から「お前はぼんやりしているようで、見るべきところは見ている」とコメントをもらって、ほっとすると同時に、こんなことでほっとしていていいのかなという気持ちもありました。

 そこへ、彼のテント村の友人が訪ねてきました。私がテント村にいる時には話したことはありませんでしたが、私のことは覚えていてくれたようです。「ホームレスに興味を持ってやってくる若者」「ホームレスのことを調べにくる大学生」というのは、さほど珍しいものではありません。ホームレス生活を送る人たちは、自分たちに対して「怖い」というまなざしが向けられているのもわかっているし、逆に好奇の目で見る人間がいることもわかっています。面白半分でやってくる人間をうっとうしく感じる気持ちもあります。

 「お前はぼんやりしているようで……」というコメントは、おやじさんのところで毎日叱られて、右往左往していた哀れな若者が、それでも最後には公園の生活についてまとめて、報告にきたということ自体を評価してくれた部分が大きかったのだと思います。

 とはいえ、それは私がテント村で暮らしていた時から交流のあった彼との間でのことであり、この友人にとっては私は初めて話す相手でしかありません。この友人はさらなる課題を私に突きつけることになりました。彼は私にこう言いました。

「わしらがホームレスをやっている理由は飯場に入ってみないとわからない」

飯場とは何か

建設業と飯場

 飯場とはなんでしょうか。文字通りみれば、「飯を食う場所」であり、泊まり込みの施設を指す言葉です。飯場とは、主に建設業の仕事をする際に、労働者が泊まり込みで働く施設のことを言います。

 建設業では、同じ場所でずっと働くということはありません。建物であれ、道路であれ、何かを造り、それが完成すれば、また次の別の場所に何かを造りに行く仕事です。工事現場が交通の便の悪い場所にあったり、その仕事ができる人間を近場で集められないような場合は、宿泊施設を設けて、完成までの期間、泊まり込みで働いてもらわなければいけません。

 このような施設を古くは飯場と言いました。今では必ずしも飯場とは呼びません。飯場といえばプレハブ造りの仮設宿舎だったような時代もありますが、あまり劣悪な施設だと働く人も嫌がるので、ホテルや民宿を借りて一時的な宿舎の代わりにすることもあるようです。あるいは、一軒家を借りて、そこでルームシェアするようなケースもあります。

 ある瀬戸内の島で、島の外から工事に来てくれる人たちのために用意された飯場に泊めてもらったことがあります。1階に大きな食堂スペース、数台の洗濯機、いくつかの個室トイレ、大きな浴場があり、2階は和室や洋室が5室くらい整備された、大きな建物でした。スケールはともかく、内装や基本的な造りはふつうの一軒家と変わらない、しっかりした建物でした。

現場飯場と人夫出し飯場

 しかし、この友人が言ったのは、このような飯場のことではありません。こういった飯場は「現場飯場」と呼ばれます。特定の工事があり、その工事現場に通えるように、近くに一時的に設けられるのが「現場飯場」です。

 これとは別に「人夫出し飯場」と呼ばれるものがあります。現場飯場が、工事の工期にあわせて設置され、工事の終了後には閉鎖されるものであるのに対し、人夫出し飯場は、特定の工事とは無関係に常設されているものになります。特定の工事とは無関係に常設されているものであるということは、いわゆる社員寮のように思えるかもしれません。社員寮と異なるのは、この宿舎に住み込みで働く労働者は、入れ代わりが激しいという点にあります。

お金を払わないで済む仕組み

 人夫出し飯場は、言ってみれば建設業の「派遣労働」の拠点のようなものです。もともと「人夫出し」とは、人手を必要とする事業者の求めに応じて、人間を用意する仕事のことを言います。現在でも、派遣業というものがありますが、派遣業の対象となっている職種や派遣できる仕事は制限されています。なぜなら、派遣という働き方自体が不安定なものだからです。本来の仕事のうち、一部分だけを、必要な期間だけ埋めるために用いられるのが派遣という制度です。

 アルバイトで働いた経験のある人は、アルバイトも似たようなものだと感じるかもしれません。基本的な生活は保障された上で、余裕の範囲内で働くのであれば、アルバイトやパートでも困るということはありません。しかし、大学を卒業してからもずっとアルバイトで暮らしていくというのは大変なことです。また、学生のあいだでも、ギリギリまでアルバイトをしなければ生活していけない、学業を続けられないという状態は望ましいことではありません。

 最近では、ウーバーイーツのような、新しい働き方として注目されているような仕事があります。自分が好きな時に好きなだけ働けると言えば、良さそうに思えますが、一回の配達で得られる対価は数百円に過ぎず、「好きなだけ働ける」と言っても、配達のオファーが必ずあるわけでもありません。実際には報酬なしの待機時間が仕事に含まれているようなものだし、怪我や事故にあった時の保障も契約に含まれていません。

 仕事というのは需要と供給のバランスですから、買ってくれる人がいなければ、働いてくれる人に給料を払うことができません。仕事が少ないのに人を雇い続けていると、給料を払うばかりになってしまいます。効率よくお金を儲けるためには、仕事がない時にお金を払わないで済むような仕組みが必要です。

 しかし、これは雇う側の立場からのみ考えた場合でのことです。働く側からすれば、ある仕事をするために時間を空けているわけで、雇う側の都合で呼ばれたり呼ばれなかったりするようだと生活していけません。雇う側に対して働く側は弱い立場にあるので、働く側を守るためにさまざま法律があります。ところが、最近ではこのような法律が、次々と雇う側に都合のいいものに作り変えられていっています。

雇う側と働く側は対等か

 雇う側からすれば、自分はお金になるような仕事を作って、食べさせてやっているのだから、労働者には感謝して欲しいと考えるかもしれません。確かに、新しい仕事を生み出したり、事業を軌道に乗せたりするためには、失敗や挫折もあるでしょうし、独特の才覚や努力も必要となります。ただ言われることをやっているだけで、文句ばかり言ってる労働者は気楽なものだと思うかもしれません。

 しかし、雇う側の事業にしても、働いてくれる人間がいなければ成り立たないものです。やっていることは違ったとしても、どちらもあってはじめて社会は成り立っています。「頑張った人は頑張っただけ報われる」「頑張った人がいい思いができるのは当たり前」だという競争原理は、普遍的な真理を現しているように思われます。

 競争をした時に、1等になる人は優れた人と言えるでしょう。しかし、1等の人が1等になるためには、2等の人が必要だし、2等の人が2等になるためには、3等の人が必要です。何らかのルールのもとに競争をした際に、その結果に順位をつけることがまちがっているわけではありません。順位がつけられるからこそ、誰よりも努力をしたり、新しいやり方を見つけたりといった創造性も生まれてきます。それによって社会全体が豊かになることもあるでしょう。

 ここで重要なのは、競争とは、一定のルールの範囲内で行われるもので、そのルールの当てはまらないところにまで、その競争の結果を持ち込んではならないということです。競争はお互いが高めあって、みんなが豊かになるための手段であり、人間の優劣をつける手段ではありません。

飯場に入ってみなければわからない」

 話が横道に逸れてしまいました。テント村の知り合いの友人が言った「飯場に入ってみないと分からない」というのは、人夫出し飯場を指すものです。人夫出し飯場は、その日求められた人間を、求められただけ用意する日雇派遣の拠点のようなものです。建設業の日雇派遣は法律で禁止されているので、これは違法ではないとしても、脱法的なことをやっていることになります。

 飯場で働く場合、二通りの働き方があります。一つは〈現金〉と言われるもので、これは飯場に入らず、1日だけ働いてその分のお金をもらう働き方です。もう一つは〈契約〉と言われるもので、10日、15日、1ヶ月というふうに、実働の期間契約を結んで飯場に入り、住み込みで働く場合です。

 実働の期間契約と言ったように、飯場に入ったからといって、毎日仕事があるとは限りません。仕事がなくて、休まされる場合もあります。ただ休んでいるだけならまだしも、休んでいる場合も宿舎の利用料や食費が引かれてしまいます。人夫出し飯場では、1日あたり大体3,000円くらいの生活費を、仕事の有無にかかわらず、給料から天引きされてしまいます。

 それでも、途切れずに仕事があれば、契約が終わる頃には10数万円のお金が手元に残せるかもしれません。しかし、休まされる日が多ければ、契約が終わる頃にはほとんどお金が残らなかったり、場合によっては借金になってしまうなどということも起こりかねません。
 ホームレスの人たちのなかには、建設業で働いていたという人が少なくありません。そして、多くの人が飯場で働いた経験も持っています。なぜなら、「カフカの階段」で見たように、野宿生活にいたるまでの過程は、階段を一段ずつ落ちるように進展するからです。仕事ひとつとっても、失業して転職をするうちに少しずつ不安定な仕事になり、やがて住むところを確保できなくなります。

 住むところを確保できなくなっても、いきなり野宿生活に入るのではなく、住み込みで働ける場所を見つけようとします。住み込みの働き場所として、人夫出し飯場は大きな受け皿を用意しています。その結果、野宿生活になる直前まで就いていた仕事に建設業が多くなってくるのです。

 また、人夫出し飯場は、住み込みの働き場所を探さざるをえないくらい追いつめられた人たちを狙っています。

 仕事が少ない時期の飯場は、〈契約〉を終えるまでに契約期間の3倍はかかると言われることがあります。「わしらがホームレスをしている理由」という言葉は、飯場での労働と生活が「ホームレスをするよりも大変なのだ」と言っていることになります。

今回の課題

 今回の課題7は、働くことについて思っていることを書いて提出して下さい。まだ大学に入ったばかりで、就職活動のことはまだ考えていない、まだ考えたくないという人も少なくないかもしれません。一方で、将来つきたい仕事のことを考えてこんなフィールドワークがしたいと書いてくれた人もいました。

 新型コロナウイルスの感染拡大で倒産してしまった会社や、内定を取り消されてしまったという話も耳に入るようになりました。最近思ったことでもいいし、将来について思うことでも構いません。件名に「学籍番号 氏名 課題7」を書いたうえで、jinken.ibu[at]gmail.com([at]を@に置き換て下さい)宛にメールで提出して下さい。

飯田基晴監督「あしがらさん」2002年製作、73分

 今日は「あしがらさん」というドキュメンタリー映画を紹介します。

 授業では「不自由だと思っていたホームレス生活を自由に生きている」バイタリティあふれるおやじさんを紹介しました。また、テント村で生きる人たちのたくましさにも少し触れられたかなと思います。

 テント村のホームレスの人たちに対し、この映画の主人公であり、新宿の路上で生きるあしがらさんは、まさに「不自由なホームレス」像に当てはまる人物と言えるでしょう。

不自由なホームレス像

 映画の冒頭から路上生活の過酷さを否応なく見せつけるような場面からはじまります。にぎやかで騒々しい新宿の路上で、ゴミの中から残飯やタバコの吸殻を漁り、薄汚れた服装で狭い範囲を行ったり来たりするあしがらさんの姿は衝撃的です。話しかけるのもためらわれるような年老いたホームレスの男性に、監督の飯田さんはカメラを向けます。

 飯田さんの解説と字幕で二人のやりとりは理解できるのですが、最初に見たとき、私はあしがらさんが何を言っているのかわかりませんでした。ふつうにコミュニケーションを取ることすら難しそうで、正直、この人を撮り続けたところで、映画として盛り上がるようなことは何も起こらないのではないかと思いました。

最初の事件

 監督の飯田さんは、1998年から2001年にかけて、3年間、あしがらさんの姿を撮り続けたそうです。最初の事件は、あしがらさんが入院したという知らせでした。支援団体の知り合いから連絡を受けて、飯田さんはあしがらさんが入院している病院にお見舞いに行きます。そこでは、路上にいた時とは打って変わって、落ち着いた表情で、笑顔を見せて冗談をいうあしがらさんがいました。

 退院する時に、「施設に入るか、路上に戻るかどちらかだ」と言われ、あしがらさんは生活保護で施設に入ることを選びます。ところが、しばらくしてあしがらさんは施設から居なくなり、飯田さんは再び路上であしがらさんと再開します。せっかく生活保護を受けて施設に入れたと思ったのに、また大変な路上生活かと思うと、あしがらさんがかわいそうに思えてきます。

何が映画を面白くしたか

 この後、あしがらさんはまた行方不明になります。入院したり、行方不明になったり、あしがらさんが幸せになる道はあるのでしょうか。こんなあてのない生活を映し続けて、この映画はいったいどんな結末が用意できるのだろうかと不安になります。しかし、この映画はこの先、思いもよらないような展開を見せます。

 何が起こるのか、結末がどうなるのかは、この映画のビデオを手に入れて自分の目で確かめて欲しいと思います。一つ言えることは、この映画は単にあしがらさんを撮っているだけではこんな面白いものにはならなかっただろうということです。あしがらさんを撮り続けていても、映画として盛り上がるような出来事はないかもしれない、観ていて楽しくなるような結末は用意できないかもしれないという思いを、監督の飯田さん自身も感じていたのではないかと想像します。

 あしがらさんにカメラを向けたのは、結果的には3年になりますが、先行きが見えなくとも、あしがらさんという人物に惹かれて、地道にカメラを回し、あしがらさんと関係を持ち続けたことが、映画を超えた現実の物語を生み出していきます。この映画は「こんなことが現実に起こりうるのか」という驚きの体験をもたらしてくれるでしょう。

自由とは何だろうか

二つの問い

「ホームレスは自由なのか」の答え

 前回は「ホームレスは自由なのか」そして「自由とは何か」の二点について、みなさんの考えを書いてもらいました。いつにも増してたくさん書いてくれた人が多く、自由というテーマにみなさんの関心が高い様子がうかがえました。

 「ホームレスは自由なのか」という問いに対する答えには、大きく分けて三つの立場があります。といっても、ちょっと考えれば分かるように「ホームレスは自由だ」という立場に対する「ホームレスは不自由だ」という意見、そして、その間を取ったような「自由なところもあるが、不自由なところもある」といったものです。

 「それまでの人生をリセットして、新しい自分を生きられる」「好きな時に寝て好きな時に起きる生活が送れる」という意味で、ホームレスは自由だと思うという意見がありました。その一方で、お金や食べることに困ることもあるだろうし、テント村の暮らしも気を遣うことが多く、自由だとは言えないという意見もあります。

 私たちの立場から見て、ホームレスの人たちの生活が自由に思えるところもあるが、不自由に思えるところもある、しかし、それは私たち自身の生活にも言えることだという意見は、「自由とは何か」を考えるための参考となるようなよく練られたものだと思います。

「自由とは何か」の答え

 では、もう一つの問い「自由とは何か」についてはどうでしょうか。『自由からの逃走』を書いたエーリッヒ・フロムは自由には二つあると述べました。個人を縛っていた何かから自由になることと、自分がしたいことをする自由です。みなさんの意見も、多くはこの二種類にわけて考えることができます。

 たとえば次のような意見がありました。

「いつでも帰れる快適なお家があり、安心して眠れる場所があり、困らないほどのお金があり充実していること」

 これは、困った状況に陥らないで済む生活、安心して暮らせる生活を指しています。ユニークな意見として、次のようなものがありました。

「何かをしなくても生活していけて自分がしたいことをしていけるYouTuberみたいな人のこと」

 多くの人が楽しめる動画を作って、自分自身が楽しみながら、のんびり暮らしていけるだけの収入を得られている人の姿に、私たちは自由を感じるのかもしれません。しかし、YouTuberの人は、もちろん何もしていないわけではないし、本当にしたいことだけをしているとも限りません。ホームレスの人たちの生活にも、はたから見ているだけではわからない事情があるように、YouTuberの人にもYouTuberの人なりの苦悩があるかもしれません。

何が自由かを決めるのは誰?

 そう考えると、誰かが自由であるかどうかなど、本人がどう思っているかを確かめなければ、確かなことは言えないのかもしれません。しかし、だからといって、私たちが誰かを見て「あの人は自由だ」「うらやましい」と憧れる気持ちも偽物というわけではありません。「自分もあんなふうに生きれたらいいのに」という憧れの形で自由は確かに存在しているはずです。

 次のような意見を書いてくれた人もいました。

「数学のような答えが決まっているのではなく、答えを自分たちで探し自分なりの答えを持つこと」

 この考えによると、自由とは何かを決めること、考えること自体が自由という言葉の意味にかかわっていることになります。

 次のような意見もありました。

「ホームレスの人は生きるために様々なことをしている。缶集めなどをしてお金を貯めてそのお金で買ってその時に自由というものがあると思う。自由は大変なことをした後に自由があると思う」

 どんな暮らしをしているかは関係なく、それぞれの生き方の中で、自分の力で満足を手に入れることが自由なのだ、というわけです。

自由とは「状態」である

 以上のことを踏まえて、ここでは、自由を次のように定義しておきましょう。

「自由とは自分自身が満足がいく状態、あるいは憧れを抱かされるような他人の状態の呼び名である。ただし、その状態は一時的なものであって、その人に備わる条件ではない」

 ここで重要なのは「ただし」以下の部分です。私は初めておやじさんと出会った時、「不自由だと思っていたホームレス生活を自由に生きているホームレスがいる」と感じました。おやじさん自身がその状態に満足しているように見えたし、ホームレス生活にもかかわらず、笑って楽しそうに生きていられる彼の姿は「自由」だと感じられたのです。

 しかし、公園での生活を知ると、おやじさんの生活には実はストレスも多く、定期的なアルミ缶拾いという深夜の肉体労働によって支えられたものであることが分かりました。

 では、おやじさんは不自由なのでしょうか。何かを得たから、何かを持っているからといって、その人が「常に自由である」などということはないのです。どんないい暮らしをしていても、お腹が空くこともあれば、嫌なことに出くわすこともあるでしょう。つまり、自由とは「条件」として備えることができるようなものではありません。

 私たちは、自分にとって満足できる状態や、憧れを抱くような他人の状態を、「自由」と呼んでしまうのです。そして、その状態とはあくまで一時的なものであって、状況が変わったり、見方が変わったりすれば、そうは思えなくなることもあります。

 私たちは満足のいく暮らしを望んだり、何かに憧れたりしながら生きています。そういった望みや憧れが、一人ひとりの中に意欲を引き出すのだし、そういった意欲を引き出すもののことを、その意味はよくわからないけれども、私たちは「自由」と呼んでいるのです。

 何が自由であるかは、人によって、状況によって、見方によって変わるものなので、他人から押し付けられるものではありません。何が不自由であるかも、誰かに対して勝手に語っていいようなものではありません。人と人との関係は、自由、不自由という言葉を手がかりにしつつも、その先で形成されるものだと言えるでしょう。

次のフィールドへ

フィールドワークの答え

 4回にわたって、ホームレスの人たちのテント村の事例を見てきました。これは私自身が初めて挑戦したフィールドワークでもありました。

 今でこそ、テント村での経験を、テント村の人びとの生活の様子や考え方をふまえてお話しすることができますが、このフィールドワークを終えた直後、私は自分の経験をとても冷静に語ることができませんでした。

 なぜなら、おやじさんの生活の事情やテント村の人間関係について理解するにはもう少し時間が必要だったからです。これまで見てきたように、テント村で過ごした延べ2ヶ月は、最初の滞在時を除けば、理由もよくわからないまま、おやじさんに叱られ、顔色をうかがっているような毎日でした。自分はそこまでひどく怒られるようなことはしていないはずなのに、と素直になれない気持ちもありました。

人生の特訓としてのフィールドワーク

 今思えば、私がフィールドワークに挑戦したのは、「自由とは何か」という問いに取り組むためであると同時に、自分自身が自由だと思える状態に到達したいと思っていたからでした。自分が悩んでいる問いに対して、答えが出せること、答えが出せるような力を身につけたいという思いがありました。その力を身につけるために選んだ特訓がフィールドワークだったというわけです。

 そう考えると、調査を終えた直後の私は、テント村でのフィールドワークの目的を果たせていませんでした。卒業論文を完成させるころには、おやじさんやテント村についてだいぶ理解が進んでいましたが、わだかまりは残ったままだったし、「自由とは何か」という問いに対する答えは見えていませんでした。となれば、人生の特訓としてのフィールドワークを続けるしかありません。

おやじさんのその後

生活保護を受けたおやじさん

 人生の特訓としてのフィールドワークを続ける決意をしたことはひとまずおいておいて、おやじさんのその後をお話ししておきたいと思います。

 2001年の段階で、当時67歳だったおやじさんとその内縁の奥さんは、生活保護を受けることが決まっていました。

 今では、ホームレス状態から生活保護を受けることもできるようになっていますが、かつてはホームレス状態から生活保護を受けるのは難しいことでした。本来生活保護は、憲法で保障された権利であり、誰でも受けることのできる「最後のセーフティネット」と呼ばれるようなものです。

 ところが、ホームレス生活をしている人が生活保護を受けたいと役所の窓口に相談に行くと「生活保護は家がある人のための制度だから、まず家を借りて来い」と言って受けさせてもらえませんでした。

 これを役所による「水際作戦」と言います。困った人が窓口までやってきているのに、制度を申請する手前(水際)で追い払うようなことを当たり前にしていました。ほかにも「65歳にならないと受けられない」「働けるんだからまず仕事を探して来い」など、さまざまな理由をつけて追い払っていました。

 1990年代後半にホームレスの人びとが急増してからは、65歳以上の人はホームレス生活からでも生活保護がいくらか受けやすくなりました。2008年にリーマンショックという世界的な大不況があった時には、製造業派遣の仕事を切られて、年末にホームレス状態に陥った人たちを救済するために東京の日比谷公園に支援団体による「年越し派遣村」が作られました。この頃から、若い人でもホームレス状態から生活保護を受けやすくなりました(とはいえ、このような「水際作戦」は今でもなくなっていません。私自身が生活保護の申請の付き添いで役所に行った際、なんだかんだ理由をつけて申請をさせないように嫌がらせされたことがあります)。

生活保護を受けてから

 2001年の夏頃には、おやじさんはすでに部屋を借りていました。テント小屋にストックされていた家具や家電を新しい部屋に運び込む引っ越しは私も手伝いました。

 生活保護を受けるようになってからも、しばらくはテント村に荷物を置いていたし、テント小屋に泊まるようなこともありました。早く公園の荷物を片付けるように役所の職員に催促され、「そんなこと言われるくらいなら生活保護なんかいらんのや!」と声を荒げる一場面もありました。

 生活保護を受ければ野宿する必要はなくなるし、生活費にも困ることはありません。しかし、おやじさんは仕事がしたかったのです。アルミ缶拾いは別として、拾ってきたものを修理して誰かに買ってもらうような商売を続けたかったのでしょう。最初は、倉庫を借りて、荷物を移動させるようなことを言っていました。

その後の二転三転

 一年半ほど経って大阪を再訪し、おやじさんの携帯電話に連絡を取りました。すると、「以前住んでいた部屋にはもういない。◯◯公園というのがあるから来てくれ」と言います。訪ねていくと、三輪自転車と上に小屋を載せたリヤカーが公園内にとめてあり、おやじさんは、その中で移動野宿生活をしていました。

 生活保護を受けていたはずなのに野宿生活に逆戻りし、奥さんの姿もなくなっています。あとで別の人に話を聞いたところでは、生活保護費が減額されることをおそれた彼は、知り合いの女性に奥さんのふりをするように頼んだのですが、そのことが生活保護ケースワーカーにばれて、保護を切られてしまったということでした。

 次に大阪を訪問したときには、おやじさんは再び生活保護を受けていました。たたみ三畳ほどの狭い部屋に、ビデオデッキやステレオなどの電化製品を積み上げて暮らしていました。リアカーのテント小屋で再開した時は憔悴しきった様子でしたが、この時には余裕を取り戻していました。

生きがいか不自由さか

 しかし、このころの彼はかつてのような魅力はあまり感じられなくなっていました。相変わらずいろんなアイデアを練っていたり、他人を楽しませようとするところはあるのですが、生活がこじんまりとしているように思われました。

 生活費が入ればパチンコに行き、パチンコに負けてお金がなくなってしまえば、狭い部屋でずっとテレビゲームをしています。この時は「バイオハザード」をしていました。

 訪ねていけば喜んでくれるし、パチンコやテレビゲームにお付き合いしたこともありました。しかし、こうした時間はたまらなく退屈で、次第に足が遠のいてしまいました。

 過酷な野宿生活を送っている時には、がむしゃらに廃品回収をして働いていた人が、生活保護を受けるようになると引きこもりのようになってしまうことがあります。

 また、それまでの暮らしでは見たこともなかったような大金が毎月一度に入るので、家賃まで使い込んでしまって部屋を追い出され、野宿生活に逆戻りしてしまう人も少なくありません。

 人と人との関係は、自由か不自由かの先に形成されるものであるという話をしました。野宿生活が過酷なものであることは確かです。しかし、人と人がよく生きられる社会を作るためには、野宿かそうでないかとは別のところにあるものを考えなければならないのではないでしょうか。

今日の課題

 今回はフィールドワークについて考えてみましょう。フィールドワークはなにも人生の特訓と決まっているわけではありません。自分の憧れの場所、憧れる人たちのところで生活してみたいという動機であっても構いません。

 あなたがフィールドワークをするなら、行ってみたい場所、やってみたいことを考えてメールで送って下さい。また、その理由も一緒に書くようにして下さい。宛先はいつものとおり、 jinken.ibu[at]gmail.com ([at]を@に置き換えて下さい)で、件名には「学生番号 氏名 課題番号」(今回は課題6)を書いて下さい。提出は添付ファイルではなく、本文に直接書き込んでくれた方が助かります。

エーリッヒ・フロム(日高六郎訳)『自由からの逃走 新版』東京創元社、1952年

 今回は、エーリッヒ・フロムという人の書いた『自由からの逃走』という本を紹介したいと思います。この本は、私が大学3回生のころ、漠然と「自由とは何か」を考えてみたいと思っていたときに先生に相談し、紹介してもらった本です。

ナチスの独裁政治

 この本の原書が書かれたのは第二次世界大戦の最中でした。ドイツに住んでいたフロムは、戦争中にアメリカに亡命します。ナチスの独裁政治による民族弾圧、政治弾圧が高まっており、その迫害から逃れるために他国に逃げた人がたくさんいました。

 当時のドイツにはワイマール憲法という、世界でもっとも民主的だと言われる憲法がありました。ところが、そのドイツでナチスの独裁政治というファシズムが生まれてきました。

二つの自由

 その理由をフロムは、当時のドイツの人びとが自由から逃げた(自由からの逃走)ためだったのだと考えました。フランスやイギリスといった近隣諸国に比べると、ドイツは近代化が遅れており、他国に追いつこうと躍起になっていました。急いで最新の仕組みを取り入れていったものの、人びとの気持ちはそれに追いついていかなかったのかもしれません。

 フロムは自由には二つの種類があると言っています。一つは「〜からの自由」です。かつての身分社会はさまざまな縛りが強い社会でした。職業選択の自由はないし、自由に移動する権利も制限されていました。今の私たちの生活では当たり前のことが認められていなかったのです。一つ目の自由は、こうしたさまざまな縛り「から」自由になることを意味しています。

 もう一つは「〜への自由」です。単に縛りから自由になるだけでは、その自由を持てあましてしまいます。何かを「する」自由を手にしたら、具体的に自分が何をしていきたいのかを自分で決めて、実行していかなければなりません。ファシズムに囚われた人びとは、何かを「する」自由を手にしたものの、何をしていきたいのかを考えることから逃げて、それを他人に預けてしまった。その結果、ナチスの独裁政治が生まれてしまったのだというわけです。

何かを成し遂げる自由

 『自由からの逃走』はフロムを一躍有名人にした出世作でした。このあとフロムは『人間における自由』、『愛するということ』、『生きるということ』など、他者を思いやり、創造的な生き方を推奨するような本をたくさん書いています。人間は自由を与えられ、またその自由を実現していくことで人生を送るべきだと考えたのです。

 これは、とてもいいことのように聞こえます。自分の夢を持って、その実現を目指すというサクセスストーリーでもあります。しかし、ちょっと考えればわかることですが、夢を持って努力したからといって、誰もが成功するわけではありません。「自分には何の取り柄もない」と気後れする人もいるかもしれません。

 最近では、このような生き方がほとんど当たり前の前提として語られるようなところがあります。「キャリア教育」というのも、その一つかもしれません。現代社会に生きる私たちは「自由に生きることを強いられる」とでも言うような、変な状況に生きています。